邑楽郡(読み)おうらぐん

日本歴史地名大系 「邑楽郡」の解説

邑楽郡
おうらぐん

面積:一三一・一六平方キロ
大泉おおいずみ町・邑楽おうら町・千代田ちよだ町・明和めいわ村・板倉いたくら

群馬県の南東端、いわゆる鶴の首の頭部にあたる。東は栃木県下都賀しもつが藤岡ふじおか町・埼玉県北埼玉郡北川辺きたかわべ町、西は太田市、南は利根川を隔てて埼玉県大里おおさと妻沼めぬま町・行田ぎようだ市・羽生はにゆう市・加須かぞ市、北は谷田やた川を境にして館林市、また矢場やば・渡良瀬両川を隔てて栃木県足利あしかが市・佐野さの市・藤岡町に接する。群馬県は北西部の大部分が山地であり、さらに栃木県北西部の山地などから流れ出た河川のほとんどが当郡の南北に集まり、雪解け期や雨期には郡の大半が水で覆われていたと思われる。このことは「和名抄」の郷名にも池田いきた疋太ひきた八田やたなど低地を意味するものが多く、当時至る所に池沼が散在していた。時代が下ると低湿地帯における河川の自然堤防などに村落が形成された。渡良瀬川が利根川に合流する地点にあたるため、古くから近代に至るまで氾濫・洪水を繰返す大河の水との戦いが続いた。それは同時に氾濫原に取残された河川跡の湖水の悪水抜と新田開発の歴史でもあった。藤原京出土木簡に「大荒木評」と記され、これが邑楽郡の古名であり、同時に古代の読みをも示唆している。邑楽郡としての地名の初出は「続日本紀」神護景雲三年(七六九)四月二七日条である。「和名抄」刊本の訓は「於波良岐」。

〔原始・古代〕

利根川中流の邑楽郡の周辺には標高一〇―二〇メートル内外の低湿地があり、板倉町板倉から海老瀬えびせの台地にかけて一〇ヵ所近い県下では珍しい貝塚が知られている。ほとんどが縄文時代早期末から前期にかけてのもので、これらの貝塚では淡水産貝類のほかに、海で採れる貝が含まれており、その近くまで海が入り込んでいたことを示しており、奥東京湾の最奥の貝塚として知られている。貝塚からは貝類のほかにシカやイノシシの骨、人骨、住居跡なども発見されている。縄文遺跡は邑楽町赤堀あかぼり光善寺こうぜんじ明和村矢島やじま、板倉町板倉などにみられ、当地方に数少ないといわれる弥生遺跡として、明和村斗合田とごたの利根川左岸に広がる低地帯の斗合田遺跡があげられる。邑楽郡は利根・渡良瀬両川に挟まれ、河水は洪水の度ごとに流路を変えたことであろう。多くの湖沼はその流路の名残でもある。それゆえ現今の邑楽郡の範囲を、そのまま古い邑楽郡の範囲と考えることはできない。郡が成立したのは七世紀の後半で、確立したのは大宝律令制定の大宝元年(七〇一)であろう。「続日本紀」神護慶雲三年四月二七日条には「邑楽郡人外大初位上小長谷部宇麻呂」が大伴部という姓を賜ったとみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報