朝日日本歴史人物事典 「信夫恕軒」の解説
信夫恕軒
生年:天保6.5.5(1835.5.31)
幕末明治期の漢学者。名は粲,字は文則,号は恕軒,天倪。父正淳は鳥取藩の藩医。幼くして父に死別し貧窮に苦しんだが,海保漁村,芳野金陵,大槻磐渓について漢文,経史を学んだ。明治の初め,東京本所に奇文欣賞塾を開いて子弟に教授。明治3(1870)年,内国勧業博覧会事務局に出仕。以後,東京師範学校,東京大学,攻玉社,東京専門学校(早大)などに出講した。大沼枕山,依田学海,菊池三渓らと交流があり,俚諺諧謔を駆使した才気溢れる漢文の書き手として,また熱心な赤穂義士の顕彰者として知られた。著書に『恕軒文鈔』『恕軒詩鈔』『赤穂誠忠録』などがある。<参考文献>『明治漢詩文集』(明治文学全集62巻)
(揖斐高)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報