幕末の儒者。蘭学者(らんがくしゃ)大槻玄沢(げんたく)の次子。字(あざな)は士広(しこう)、名は清崇(きよたか)、通称は平次、号は磐渓。江戸にあって昌平黌(しょうへいこう)に学ぶこと10年、のち東海、畿内(きない)、長崎に歴遊。32歳で仙台藩に抜擢(ばってき)されて儒員に列し、別に家をたて江戸藩邸の侍講となる。1853年(嘉永6)ペリー来航のとき、開国の意見をとり、1862年(文久2)仙台に移って藩校養賢堂の学頭となる。戊辰(ぼしん)戦争では奥羽軍のため軍国の文書をつかさどり、事敗れて獄に下る。恩赦にあってのち東京に居を定め、漢詩文界の老将と目された。明治11年6月13日没、78歳。東京・芝高輪(たかなわ)東禅寺に葬られる。著書に『近古史談』『寧静閣詩文集』など数十種がある。『新撰日本洋学年表』の著者如電(じょでん)、『大言海』の著者文彦(ふみひこ)はその子息。
[平 重道 2016年4月18日]
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幕末・維新期の儒者。仙台藩医大槻玄沢の次男。諱(いみな)は清崇,字は士広,通称は平次,磐渓は号。江戸に生まれ昌平黌に学び,1827年(文政10)長崎に遊学。32年仙台藩江戸居住学問稽古人となり儒学に専念。のち江川塾などで西洋砲術を究めた。ペリー来航時,親露排英に立脚する開国説を建議。62年仙台藩校養賢堂学頭となる。68年戊辰戦争に敗れ一時下獄。71年東京に再住した。著書に《孟子約解》《近古史談》等。
執筆者:有坂 隆道
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