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大槻磐渓 おおつき ばんけい

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美術人名辞典の解説

大槻磐渓

幕末・明治の儒者・砲術家。江戸生。仙台藩蘭学者大槻玄沢の二男。名は清崇、字は士広、初号は江陰、通称は平次。初め昌平黌で儒学を学び、のち西洋砲術を学ぶため江川塾に入り、学頭となって藩兵の調練を行う。ペリー来航時には幕府に開国論を建議するなど、独自の外交論を展開した。著書に『孟子約解』『近古史談』等。明治11年(1878)歿、78才。

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デジタル大辞泉の解説

おおつき‐ばんけい〔おほつき‐〕【大槻磐渓】

[1801~1878]幕末から明治初期の儒学者。江戸の人。玄沢の次男。仙台藩侍講。外国事情と西洋砲術を研究し、開港論を主張。著「孟子約解」「近古史談」など。

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百科事典マイペディアの解説

大槻磐渓【おおつきばんけい】

幕末・維新期の儒者。砲術家。江戸生れ。名は清崇。字は士広。通称は平次。父は仙台藩医大槻玄沢昌平坂学問所に入門,松崎慊堂に学ぶ。蘭学修業は,シーボルト事件のため十分にはできなかったが,西洋砲術を研究し,藩士の調練に力を尽くした。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

大槻磐渓 おおつき-ばんけい

1801-1878 江戸後期-明治時代の儒者,砲術家。
享和元年5月15日生まれ。大槻玄沢の次男。昌平黌(しょうへいこう)でまなび,天保(てんぽう)3年仙台藩江戸藩邸の儒員となる。江川塾で砲術をならい,開国論を主張。文久2年仙台にいき,藩校養賢堂の学頭となった。明治11年6月13日死去。78歳。江戸出身。名は清崇(きよたか)。字(あざな)は士広(しこう)。通称は平次。著作に「献芹微衷(けんきんびちゅう)」など。

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朝日日本歴史人物事典の解説

大槻磐渓

没年:明治11.6.13(1878)
生年:享和1.5.15(1801.6.25)
幕末明治期の蘭学者,砲術家。磐渓は号で,名は清崇,通称平次,字は士広。仙台藩医で蘭学者大槻玄沢の次男。国語学者大槻文彦は子。江戸木挽町に生まれ,16歳で昌平坂学問所へ入学,松崎慊堂について儒学を学んだ。天保12(1841)年,旧友高島秋帆の徳丸原砲術演習を見て西洋砲術に興味を持ち「漢学を本業,西洋砲術を副業として文武両刀たらん」と決意,高島の門人大塚瑪蜂に入門,その後江川太郎左衛門下に転じ学頭となった。また天然痘で長男順之助を失った痛手から,残る4人の子供には皆種痘を施すなど,この時期から次第に蘭学へ傾斜。「献芹微衷」を記して親露排英説を唱え,ペリー来航時には幕府に開国論を建議するなど独自の外交論を展開,文久2(1862)年帰藩して藩校養賢堂の学頭となる。戊辰戦争では執政但木土佐を助けて徹底抗戦を主張,奥羽越列藩同盟の精神的主柱となったが,逮捕され投獄。のち許されて東京本郷で文筆風流の日々を過ごした。<著作>『孟子約解』『古経文視』<参考文献>「磐渓年譜」「磐渓事略」

(山崎有恒)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

おおつきばんけい【大槻磐渓】

1801‐78(享和1‐明治11)
幕末・維新期の儒者。仙台藩医大槻玄沢の次男。諱(いみな)は清崇,字は士広,通称は平次,磐渓は号。江戸に生まれ昌平黌に学び,1827年(文政10)長崎に遊学。32年仙台藩江戸居住学問稽古人となり儒学に専念。のち江川塾などで西洋砲術を究めた。ペリー来航時,親露排英に立脚する開国説を建議。62年仙台藩校養賢堂学頭となる。68年戊辰戦争に敗れ一時下獄。71年東京に再住した。著書に《孟子約解》《近古史談》等。

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大辞林 第三版の解説

おおつきばんけい【大槻磐渓】

1801~1878) 江戸後期・明治の儒学者。江戸の人。玄沢の子。仙台藩儒。洋学も修め西洋砲術にも通じ、開国説を主張。著「近古史談」「寧静閣集」など。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

大槻磐渓
おおつきばんけい

[生]享和1(1805).5. 江戸
[没]1878.6.13. 東京
幕末,明治初期の儒者,蘭学者。仙台藩医大槻玄沢の次男。昌平黌に学び,父の死を契機に蘭学修業を志し,長崎に1年あまり遊学。天保3 (1832) 年以降,儒学に専念するが,時勢を考え嘉永1 (48) 年,西洋砲術修業を志し,大塚瑪蜂 (まほう) に入門,同4年には江川 (太郎左衛門) 塾に入門して皆伝を受け,藩兵の調練を行なった。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

大槻磐渓
おおつきばんけい
(1801―1878)

幕末の儒者。蘭学者(らんがくしゃ)大槻玄沢(げんたく)の次子。字(あざな)は士広(しこう)、名は清崇(きよたか)、通称は平次、号は磐渓。江戸にあって昌平黌(しょうへいこう)に学ぶこと10年、のち東海、畿内(きない)、長崎に歴遊。32歳で仙台藩に抜擢(ばってき)されて儒員に列し、別に家をたて江戸藩邸の侍講となる。1853年(嘉永6)ペリー来航のとき、開国の意見をとり、1862年(文久2)仙台に移って藩校養賢堂の学頭となる。戊辰(ぼしん)戦争では奥羽軍のため軍国の文書をつかさどり、事敗れて獄に下る。恩赦にあってのち東京に居を定め、漢詩文界の老将と目された。明治11年6月13日没、78歳。東京・芝高輪(たかなわ)東禅寺に葬られる。著書に『近古史談』『寧静閣詩文集』など数十種がある。『新撰日本洋学年表』の著者如電(じょでん)、『大言海』の著者文彦(ふみひこ)はその子息。[平 重道]

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