日本大百科全書(ニッポニカ) 「制旨寺」の意味・わかりやすい解説
制旨寺
せいしじ
中国、広東(カントン)省広州にある光孝(こうこう)寺の旧称。寺志や僧伝によれば、もと南越(なんえつ)王趙建徳(けんとく)の故宅を寺として制止寺といい、東晋(とうしん)、安帝の隆安年間(397~401)に罽賓(けいひん)(インド・カシミール地方にあった国)の僧が玉園(ぎょくおん)寺とした。420年(永初1)求那跋陀羅(ぐなばっだら)が戒壇を建て、502年(天監1)智薬(ちゃく)三蔵(『宋(そう)高僧伝』では真諦(しんたい)三蔵とある)が天竺(てんじく)(インド)より菩提樹(ぼだいじゅ)を携えて植えた。また527年(大通1)禅宗の初祖達磨(だるま)が来至したといわれる。唐代に乾明法性(けんめいほうしょう)寺と改称。676年(儀鳳1)六祖慧能(えのう)が風幡(ふうばん)の問答を行い菩提樹下で剃髪(ていはつ)。705年(神竜1)西域(さいいき)僧の般刺蜜諦(はんしみったい)が当寺で『楞厳経(りょうごんきょう)』を訳し、会昌(かいしょう)年間(841~846)に道観となって西雲道宮(さいうんどうきゅう)と称した。宋代に太祖は乾明禅院となし、1137年(紹興7)に報恩広孝禅寺、1151年(紹興21)に光孝寺と改めた。
[鎌田茂雄 2016年8月19日]