中国,宋朝を開創した皇帝。姓は趙,名は匡胤(きよういん)。涿(たく)郡(河北省)の人。五代の武人趙弘殷の次子として洛陽の軍営で生まれた。後周世宗に重用され,禁軍(親衛隊)の総司令官である殿前都点検になった。959年(顕徳6),世宗が没して,わずか7歳の恭帝が後をついだが,それを不満とする禁軍将兵たちは,翌年正月,趙匡胤を皇帝に擁立した。彼は即位して国号を宋と定め,世宗が始めた中国統一の事業をひきつぎ,江南に割拠していた荆南,楚,南漢,後蜀,南唐をつぎつぎに征服して,唐末以来の分裂状態にほぼ終止符を打った。統一事業を進める一方で,君主独裁の中央集権体制をつくっていった。まず五代に王朝が頻繁に交代したのは,多くは禁軍のクーデタによるものであったから,その危険性をなくすため,総司令官の殿前都点検を廃止して,侍衛馬軍,侍衛歩軍,殿前諸班の3軍を分立し,それを統率するものは皇帝のみとした。
さらに唐末五代の分裂抗争は,藩鎮(地方軍閥)が強大になって皇帝権力が弱かったことによるとの反省から,これまで藩鎮がにぎっていた地方行政,財政,軍事などの諸権限を中央に回収して,その勢力を削減していった。すなわち税収のほとんどすべてを中央に送納させて,地方には最低必要量しかとどめさせず,強壮な兵卒は禁軍に編入して廂軍(地方軍)を骨抜きにした。また地方行政官はすべて中央から文臣を派遣し,しかも知州(州知事)のほかに通判(副知事)を置いて互いにけん制させるなど,地方勢力の台頭を防止する方策を講じた。中央機構でも同中書門下平章事(宰相)のほかに参知政事(副宰相)を置いて合議制とし,財政は三司使,軍政は枢密使にゆだねるなどして宰相の権限を縮小し,特定の臣僚に権力を集中させないようにした。こうした君主独裁体制はつづく太宗によっていっそう強化され,後世に引きつがれた。彼には逸話が多く,後代には《飛竜記》という小説さえ作られた。
執筆者:竺沙 雅章
→耶律阿保機(やりつあぼき)
→拓跋珪(たくばつけい)
→王建(高麗)
→ヌルハチ
→朱全忠
→洪武帝
→李成桂
→曹操
→高帝
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中国前近代の廟号(びょうごう)の一つ。始祖の意であり、創業の君主を称する。北宋(ほくそう)の趙匡胤(ちょうきょういん)、明(みん)の朱元璋(しゅげんしょう)らが有名。かならずしも王朝の初代に限らず、たとえば三国魏(ぎ)は曹操(そうそう)を太祖にあてている。
[尾形 勇]
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