加藤光員(読み)かとう・みつかず

朝日日本歴史人物事典 「加藤光員」の解説

加藤光員

生年生没年不詳
鎌倉初期の武将。加藤太と称す。父は景員。治承4(1180)年父や弟景廉と共に源頼朝の挙兵に参加,石橋山の戦で敗れて甲斐に逃げ,のち武田氏と共に駿河に進み目代橘遠茂を討った。以後弟と共に転戦し,鎌倉幕府の有力御家人となった。伊勢国の豊田庄,池田別符,中跡庄の地頭職を持ち,伊勢神宮祭主大中臣能隆の家司でもあった。また西面武士として後鳥羽上皇に仕え,伊勢守・検非違使に任じられ,大夫判官と称した。承久の乱(1221)では京方に属したが,その活動を伝える史料は残っていない。所領の伊豆国狩野牧が没収されて弟景廉に与えられたこと,子の光兼が京方として殺されたことが知られるのみである。乱後まもなく死去したらしい。

(本郷和人)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「加藤光員」の解説

加藤光員 かとう-みつかず

?-? 鎌倉時代の武将。
本拠は伊豆狩野荘(静岡県)。治承(じしょう)4年(1180)源頼朝の挙兵に父景員,弟景廉(かげかど)とともに参加。石橋山の戦いに敗れ一時甲斐(かい)(山梨県)にのがれたが,武田信義にしたがって駿河(するが)(静岡県)を攻め,橘遠茂(とおもち)を討つ。文治(ぶんじ)5年弟とともに頼朝の奥州攻めにしたがい,のち伊勢(いせ)(三重県)の平氏追討。西面の武士として検非違使(けびいし)となった。通称は加藤太。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の加藤光員の言及

【加藤氏】より

…(1)伊勢国の中世武家。藤原利仁流の末裔景貞(清)が伊勢に下向,祖となったという。津市,鈴鹿市に景貞伝承の地がある。その子景員,孫景廉・光員は源頼朝挙兵に参加,その後,光員は頼朝側近として,また1185年(文治1)平家家人上総介忠清を志摩国で捕縛,没官領の注進など当国統治にも活躍,朝明郡豊田荘など数ヵ所の地頭職を得,左衛門尉,伊勢守に任官している。1206年(建永1)当時,彼は西面の武士として後鳥羽院と,道前(みちのさき)政所職(神宮領朝明郡,員弁郡,三重郡)として大神宮と関係するなど複雑な関係を持った人物であった。…

※「加藤光員」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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