改訂新版 世界大百科事典 「武田信義」の意味・わかりやすい解説
武田信義 (たけだのぶよし)
生没年:1128-86(大治3-文治2)
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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(三田武繁)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
1128.8.15~86.3.9
平安末~鎌倉初期の武将。甲斐国巨摩郡武田に住む。甲斐源氏源清光の子。1180年(治承4)以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ)に応じて挙兵。富士川の戦では夜襲をしかけ平家軍を敗走させた。合戦後,源頼朝から駿河国守護に任じられる。しかし甲斐源氏勢力の抑圧をはかる頼朝に,84年(元暦元)嫡子一条忠頼を殺され,みずからも頼朝の勘気をこうむり,失意のうちに死んだ。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…旧国名。甲州。東海道に属する上国(《延喜式》)。現在の山梨県。
【古代】
古墳時代の甲斐は,前期には曾根丘陵地帯に銚子塚古墳(中道町)などいくつかの前方後円墳が出現し,後期には分布地域が広がり,姥塚(うばづか)(御坂町),加牟那塚(甲府市)など巨大な横穴式石室を持つ円墳も現れた。これら古墳の築造者で,この地の支配者であった甲斐国造(くにのみやつこ)が,大和の政権に貢上した馬は,“甲斐の黒駒”と呼ばれて名高く,その伝統は平安時代に駒牽(こまびき)の行事となった。…
…以後,駿河武士団の形成は急速に進行した。【原 秀三郎】
【中世】
[鎌倉・室町時代]
源頼朝は1180年(治承4)8月に伊豆で挙兵,10月には富士川の戦で平氏軍を破り,駿河守護に武田信義を補任して,みずからは鎌倉に入った。その4年後に信義の子一条忠頼が謀反の嫌疑で殺害された際,信義は守護を解任されたと考えられる。…
…平維盛を総大将とする平氏の遠征軍は,1180年(治承4)10月18日富士川西岸に布陣した。しかし駿河,遠江の現地平氏方勢力は直前の14日,駿河目代橘遠茂(たちばなのとおもち)に率いられ,富士山西麓の鉢田(はちだ)で武田信義,安田義定以下甲斐源氏の軍勢と会戦,壊滅していた。もともと兵力,軍粮に不安のあった中央平氏軍の戦意は萎縮するばかりであった。…
※「武田信義」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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