日本歴史地名大系 「勝山御殿跡」の解説 勝山御殿跡かつやまごてんあと 山口県:下関市田倉村勝山御殿跡[現在地名]下関市大字田倉四王司(しおうじ)山の西南麓、砂子多(すなこだ)川の上流に長府毛利氏の藩政庁が馬関攘夷戦中に築造された。文久三年(一八六三)の攘夷戦において前田(まえだ)砲台が占領破壊されるに及び、長府藩は長府在住の老幼婦女子に避難を命じた。併せて藩政庁も避難すべく計画が立てられ、四王司山・勝山・青(あお)山と、東・北・西の三方が山で囲まれ、前面のみ展望が開けたこの地が選ばれた。「勝山ノ険ニ拠リ古塁ヲ増築センコトを謀ル」とある(長府毛利家乗)。同年六月二八日勝山の田倉(たくら)に御殿築造の工事が着手され、「藩内士民男女喜テ金穀ヲ献シ、力役ニ従ヒ、其挙ヲ助クルモノ日ニ数百人是ニ至リ、功全ク竣ハルヲ告ク」とあり(同書)、藩内がこぞって奉仕に従ったことにより短期間に完成、元治元年(一八六四)二月一日藩主毛利元周は新築成った勝山御殿へ移った。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by