日本大百科全書(ニッポニカ) 「豊浦藩」の意味・わかりやすい解説
豊浦藩
とよらはん
長州藩(萩(はぎ)藩)支藩の一つ。長府(ちょうふ)藩、府中藩ともいう。長門(ながと)国(山口県)西端、豊浦郡の大部分を藩域とする。居館は長府(下関(しものせき)市長府)に置かれた。1600年(慶長5)毛利輝元(もうりてるもと)は防長移封にあたり、従兄弟(いとこ)で養子とした毛利秀元(ひでもと)に、豊浦郡3万6200石の地を分与したのがその起源である。輝元は東の岩国に吉川広家(きっかわひろいえ)を配置して東を固め、西の長府に秀元を配置して西を固めたのであった。秀元の遺言により、1653年(承応2)次男元知(もととも)が豊浦郡中央東部1万石の地を分与され、新たに清末(きよすえ)藩を創設した(居館は下関市清末)。秀元は初め長府の海岸に串崎(くしざき)城を築城してここに住んだが、幕府の一国一城令により、1607年(慶長12)城を破却して町内の館(やかた)に移った。
豊浦藩の石高は幕府朱印状によらないので公称高はないが、1610年(慶長15)検地で5万8000余石、1625年(寛永2)検地で8万3000余石、1854年(安政1)ごろの幕末期には12万7000余石に達した。本藩毛利家に後嗣(こうし)を欠くときは、支藩筆頭の豊浦藩毛利家から養子を出す定めがあった。このため中興の英主といわれる本藩主吉元(よしもと)〔綱元(つなもと)長男〕、重就〔(しげたか)、旧名匡敬(まさたか)〕は、ともに豊浦藩毛利家から入り本藩主となった。1718年(享保3)藩主元矩(もとのり)は早死して後嗣を欠き、当藩は一時廃絶となったが、清末藩毛利家から匡広(まさひろ)を養子として迎え再興した。1783年(天明3)に幕府は当藩を公称5万石の城主格とした。藩主は秀元、光広(みつひろ)、綱元、元朝(もととも)、元矩、匡広、師就(もろたか)、匡敬、匡満(まさみつ)、匡芳(まさよし)、元義(もとよし)、元運(もとゆき)、元敏(もととし)と13代続いた。1871年(明治4)廃藩、豊浦県を経て山口県に編入された。
[広田暢久]