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長府藩 ちょうふはん

防府市歴史用語集の解説

長府藩

 江戸時代の萩藩に置かれた、毛利一門[もうりいちもん]がおさめる独立した小さな藩(支藩[しはん])の1つです。現在の下関市豊浦町・豊北町の一部・菊川町・豊田町の一部にあたります。長府藩の一部が1653年に清末藩[きよすえはん]として独立しています。

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藩名・旧国名がわかる事典の解説

ちょうふはん【長府藩】

江戸時代長門(ながと)国豊浦(とよら)郡長府(現、山口県下関市長府)に藩庁をおいた外様(とざま)藩。長州藩(萩藩)の支藩の一つ。藩校は敬業館(けいぎょうかん)。1600年(慶長(けいちょう)5)、毛利元就(もうりもとなり)の4男穂田元清(ほいだもときよ)の次男で、毛利輝元(てるもと)の養子となった秀元(ひでもと)が立藩。下関海峡に面した長州藩領東部3万6200石を輝元から分与されたもので、53年(承応(じょうおう)2)には秀元の次男元知(もととも)が1万石を分与されて清末(きよすえ)藩が成立した。本藩の長州藩に後継者がないときは筆頭支藩から養子を出す定めがあり、そのため3代綱元(つなもと)と8代匡敬(まさたか)を長州藩主として送り出した。石高は慶長検地で5万8000石、寛永検地で8万3000石余、幕末期には12万7000石に達した。秀元から数えて14代続き、1865年(慶応1)には清末藩も含めて直轄領にしようとした本藩と対立したが、のち和解してともに戊辰(ぼしん)戦争を戦った。71年(明治4)の廃藩置県により、豊浦県を経て山口県に編入された。◇豊浦藩、府中(ふちゅう)藩ともいう。

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世界大百科事典 第2版の解説

ちょうふはん【長府藩】

長州藩(萩藩)の支藩の一で,長門国豊浦(とようら)郡の大部分と厚狭(あさ)郡西部の一部を領域とする藩。府中藩ともいい,1869年(明治2)の版籍奉還時,豊浦(とよら)藩と改称した。1600年(慶長5),毛利輝元の防長2ヵ国への移封に際して,その従弟秀元(元就四男元清(もときよ)の次男)に長府(現,下関市)3万6200石を分知したのが起りとされる。藩高は4万7000余石と通称されていたが,1783年(天明3)公称5万石の城主格に列した。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

長府藩
ちょうふはん

豊浦藩」のページをご覧ください。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

長府藩
ちょうふはん

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世界大百科事典内の長府藩の言及

【赤間関】より

…中世後期には大内氏,さらに毛利氏が支配し,九州への進出拠点として軍事上の要衝であった。【木村 忠夫】 1600年(慶長5)長州藩の支藩として長府藩が成立し,その支配地となった。赤間関は大内時代の1441年ころ(嘉吉年間)に阿弥陀寺町,外浜(とばま)町,中ノ町,西之端町,赤間町,南部(なべ)町などが成立していたが,近世に入って西部が発展して細江町ができた。…

※「長府藩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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