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1871年(明治4)7月14日,これまでの藩を廃して県を置き,中央集権的な統一権力として明治政府が成立するのに一時期を画した政治変革。広義には,79年4月4日の琉球藩の廃止,沖縄県の設置で完成する。1869年の版籍奉還は,この廃藩置県の前提ではあったが,前者は諮問という形で各藩に論議をつくさせ,〈奉還〉を許可したのに対し,後者は天皇の一方的な命令として廃藩が布告された。このように廃藩が一挙になされた要因は,戊辰戦争以降1871年にかけての諸状況から,次のように要約できる。
(1)複合的な矛盾による重層的な危機の進行 戊辰戦争の終結によって列強による外圧の危機はいちおう回避されたが,各地の農民一揆・打毀の激化,山口藩の諸隊反乱,〈脱籍浮浪の徒〉による大官暗殺・反政府運動の連鎖的反応などによって,社会的および政治的な重層的危機が増大した。
(2)藩財政のゆきづまり 戊辰戦争によって各藩の財政は逼迫(ひつぱく)し,そのため1869年12月以降,自発的に廃藩を申し出る藩(多くは小藩)が相ついでいた。しかし,これはどの藩にもあった藩財政窮乏の先行的な顕在化現象であった。
(3)藩政改革の進行 藩政改革は基本的には新政府による藩統制の強化にほかならなかったが,そのなかにあって中央政府の意図をこえた事態(たとえば,鹿児島藩の士族軍事国家,熊本藩の豪農的ブルジョア権力の出現の可能性等)が予測された。
(4)中央政府軍事力の創出 1871年2月,薩長土3藩を中心とする〈御親兵〉約1万を兵部省管轄下におくことが発令され,6月にはその集結が終わった。この中央軍事力の創出が,廃藩置県を前提としてなされたか否かで議論は分かれているが,少なくとも廃藩置県断行の背景的な威力になっていることは否定できない。
(5)急進的廃藩論の台頭 前述の複合的な矛盾による重層的危機の進行が,政府首脳の志向を一致せしめ,反政府運動の弾圧強化策とともに,漸進的廃藩論を急進的廃藩論へと変化させた。
(6)統一国家としての実質化 維新政府は,対外的には唯一の主権者ではあったが,藩体制存置のままの対内的支配には限界があり,財政も不安定であった。当時,至上の課題とされた〈万国対峙〉のためには名実ともに統一国家の実現は緊急の要請だったのである。かくて,廃藩の緊急性は痛感され,維新官僚はこの国際的条件にからむ要請を,統一国家実現の〈てこ〉にしたのである。
このような諸要因を背景とし,山県有朋,鳥尾小弥太,野村靖,井上馨ら少壮開明派が,木戸孝允,大久保利通,さらに廃藩に微妙な態度をとっていた西郷隆盛らを動かして,1871年7月14日,〈内以テ億兆ヲ保安シ,外以テ万国ト対峙セント欲セバ,宜ク名実相副(あいそ)ヒ,政令一ニ帰セシムベシ〉という天皇の命令による廃藩置県が断行されたのである。ここに全国は1使(開拓使)3府(東京,京都,大阪)302県となり,その年11月,1使3府72県に統合された。この地方行政は,政府任命の開拓長官(当初は次官),府知事,県令(権令(ごんれい),参事等)が担当した。ついで12月には,これら府県の序列が定められた。東京,京都,大阪3府の序列から始まり(1872年の琉球藩設置後は琉球藩がこれに次ぐ),神奈川,兵庫,長崎,新潟(重要港のある県)がこれに次ぎ,以下関東,近畿,中部,東海(甲信を含む),東北,北陸,山陰,山陽(和歌山を含む),四国,九州というだいたいの順序であった。その際,政府は維新の忠勤藩と朝敵藩とを区別し,前者の大藩は県名にそのまま藩の名を用い(たとえば,鹿児島,山口,高知など),後者と日和見の大藩にはその藩名を使わせないで,郡名または山川の名を用いさせた(名古屋=愛知,松江=島根,金沢=石川など)というエピソードがある。79年4月の沖縄県設置で全国は1使3府36県となり,88年1道(1886年,北海道庁設置)3府43県となった。
ところで,廃藩置県に際し,藩主層はまったくといってよいほど抵抗しなかった。廃藩によって年貢は新政府の手中に入ったものの,旧藩士への家禄の支給や藩の負債は政府が肩代りをし,藩主の実収入は保障されたからである。政府は各藩主の籍を東京に移させ,知藩事ではなくなったが,華族の身分には変化はなかった。廃藩置県は藩主層にとっては不安や危機感から解放され,失うことのもっとも少ない保障された政治的措置だったといえる。廃藩置県直後,〈太政官職制並事務章程〉が制定され,天皇親臨・万機親裁が明確に規定された。廃藩置県は近代天皇制国家形成過程における権力統一の第一歩であるが,同時にそれはイタリアの統一完成(1870),ドイツ帝国の成立(1871)とともに,19世紀70年代の後発国の近代的統一のアジアにおける一形態を示しているといえよう。
執筆者:田中 彰
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1871年(明治4)7月、全国の藩を廃して県を置き、中央集権的統一国家を樹立した政治変革。版籍奉還(はんせきほうかん)後、政府は中央集権化政策を積極的に推進したが、とくに1870年秋から1871年春にかけては、岩倉具視(ともみ)の「建国策」に示される体系的な中央集権化構想、「藩制」「徴兵規則」「新律綱領」「戸籍法」などの諸法令にみられる集権的、統一的施政が展開された。さらに岩倉勅使や大久保利通(としみち)、木戸孝允(たかよし)らの鹿児島・山口訪問の結果、両藩および土佐藩の中央政府への協力態勢が確定し、3藩の献兵約1万の東京集結も実現することになった。一方、藩体制の解体の度合いも深刻化し、藩の維持ができず、個別的に廃藩を願い出て許可されるもの、藩の形式は維持しても実質的には廃藩同様の状態に置かれるものなどが広範に現れ、藩体制崩壊の傾向は顕著となった。これらのなかで、信州や豊後日田(ぶんごひた)地方における百姓一揆(いっき)、草莽(そうもう)・下級士族・不平公卿(くぎょう)などによる反政府陰謀が進行し、1871年正月には参議広沢真臣(ひろさわさねおみ)暗殺事件が発生した。政府は、これらに対しては武力による強圧政策を断行した。1871年6月、鹿児島・山口・高知三藩連合が推進力となり政府首脳人事の改変が行われ、西郷隆盛(さいごうたかもり)、木戸孝允2人が参議となって政体改革にあたることになった。この政体改革の動きとは別に、7月初旬に廃藩置県断行の合意が西郷、木戸ら在朝鹿児島・山口両藩出身者の間に成立し、隠密のうちに準備が進められ、三条実美(さねとみ)、岩倉具視もこれに同意した。7月14日在京知藩事を召集して廃藩置県の詔(みことのり)を発し、在国知藩事にも廃藩を指令した。同日板垣退助(いたがきたいすけ)、大隈重信(おおくましげのぶ)を参議に加え、鹿児島・山口・高知・佐賀4藩の協力態勢を固めた。廃藩の結果、全国は3府302県1使となった。廃藩によって免職された知藩事は、家禄(かろく)と華族身分を保証されて東京に移住し、藩債は政府に肩代りされた。
一方、1871年7、8月には太政官(だじょうかん)体制の大改革が行われた。これにより、神祇官(じんぎかん)は廃止され、太政官は正院(せいいん)、左院、右院の三院制となった。正院には太政大臣、左右大臣(納言)、参議の三職が置かれ、天皇親臨のもとに国家の最高意志を決定した。左院は議長、議員(議官)により諸法案を審議し、右院は各省の長、次官から構成されて省務関係法案の起草と議事を行った。また、太政官のもとに外務、大蔵、兵部、工部、司法、文部、宮内、神祇の8省が置かれた。さらに、従前の官位相当を廃し、官等を15とし、三等以上を勅任官、七等以上を奏任官、八等以下を判任官とし、武官は四等以上を勅任官とした。これらの改革によって、明治太政官体制は確立した。この体制は、天皇の太政官親臨という形による天皇親政の理念、太政官正院による天皇輔弼(ほひつ)の独占、立法・行政・司法の三権未分離とその太政官正院への一元的統轄、宮中・府中の未分離などにその主要な特徴があり、これらの特徴はその後も基本的な変化はない。また地方制度では、同年10月の「府県官制」では府および県に知事以下を置いたが、翌11月には全国諸県の大統合が行われて3府72県1使となり、さらに同月の「県治条例」によって県には県令以下が置かれ、県庁には庶務、聴訟(ちょうしょう)、租税、出納(すいとう)の4課が設けられて事務を分掌することになった。これによって、その後の県治の基礎がつくられたのである。
[原口 清]
『原口清著『日本近代国家の形成』(1968・岩波書店)』
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藩体制を完全に解体した明治初期の政治改革。藩体制の解体と郡県制への移行の問題は,王土王民論の思想にもとづいてすでに江戸末期から論じられ,維新後の明治政府にとって最大で緊要の課題であった。1869年(明治2)6月の版籍奉還,翌年9月の藩制改革などを通して,政府は藩に対する統制を強化したが,財政悪化などのために自発的に廃藩を願い出る藩が出始め,69年12月の吉井・狭山両藩を皮切りに,71年6月までに14藩に及んだ。さらに税制や兵制の改革,政府内部の対立,不平士族や農民らの不穏な動きによる地方の動揺などの問題を解決するために,強力で集権的な政府を樹立する必要に迫られた。71年2月薩長土3藩からの献兵による御親兵を設置し,その武力を背景に7月14日詔を発し,261藩の廃藩置県を断行した。各県には政府任命の知県事(のち県令)をおき,同時に官制改革を行って急速に中央集権化を進めたが,同時に政府の薩長土肥4藩による藩閥化も目立つようになった。廃藩により全国は3府302県となり,統廃合を重ねて同年末には3府72県となった。知藩事は廃藩置県と同時に廃止されて東京在住となり,旧領地との関係を断ち切られた。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…これに琉球を加えて85国となった。71年7月の廃藩置県で藩が県にかえられ,11月には県が合併整理されたが(改置府県),県は統治機構の名であって支配のおよぶ範囲ではなく,したがって地方行政の対象地域としての国は残った。その後県の増減があったが,88年に3府43県に固定した。…
…江戸幕府は1643年(寛永20)3月に,田畑永代売買禁止令を出しているが,後者の占有内部に〈身上(しんしよう)能(よ)き〉百姓=〈徳人(とくにん)〉の輩出と極貧の小百姓経営の成立という分解をおそれてのことであった。さて,藩政改革は以上の諸前提のうえに成立してくるが,ここでは,17世紀後半から廃藩置県に至る時代を4期に分けて,藩政改革の推移と実態をみてゆくことにする。
[前期――給人地方支配の廃止と俸禄制への転換]
領知規模1万石以上を大名と呼び,その大名の所領高合計が全体の4分の3に達しているなかで,徹底しきれないいくつかの藩があったにせよ,大名家臣団が地方(じかた)支配(地方知行)から俸禄制(蔵米(くらまい)知行)に変わったことは,藩政にとっても大きな変化であったといえよう。…
…まず新しい社会をつくるうえに障害となる旧制度としての幕藩体制は,封建的支配機構の解体,不徹底ながら実施された封建的身分制度の解体,結婚・離婚など身分行為の自由の承認,経済的拘束の撤廃などによって解体された。廃藩置県(1871),士族の秩禄処分(1870以降),華士族平民間の通婚の自由(1871),関所廃止(1869),田畑永代売買の承認(1872)などがその例である。旧体制に代わる新しい中央集権的な統治機構は,1871年の太政官制の整備をはじめ,同年の府県官制,県治条例,72年の大区・小区制,78年の郡区町村編制法による地方制度の整備,1872年以降の裁判所の設置などによって構築された。…
…第2回は79年1月25日から2月4日までの10日間で,松田は再び命令の遵奉を要求し,遵奉しない場合は〈相当ノ処分〉を行うと威嚇したが奏功しなかった。第3回は同年3月25日から6月13日までで,この間に松田は軍隊と警察を率いて首里城へ乗り込み,廃藩置県を宣言,事務引継ぎを済ませ,尚泰を上京させた。琉球処分の功により勲三等に叙せられ,同年12月東京府知事に任命される。…
※「廃藩置県」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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