南安曇郡(読み)みなみあずみぐん

日本歴史地名大系 「南安曇郡」の解説

南安曇郡
みなみあずみぐん

面積:八五四・四四平方キロ
豊科とよしな町・穂高ほたか町・堀金ほりがね村・三郷みさと村・梓川あずさがわ村・安曇あずみ村・奈川ながわ

県西部、梓川・さい川の左岸に位置し、飛騨山脈の東麓に展開する梓川扇状地・黒沢くろざわ川扇状地・からす川扇状地・中房なかぶさ川扇状地などの複合扇状地上に立地する。南は月夜沢つきよざわ峠・さかい峠・鉢盛はちもり山・梓川をもって木曾郡・東筑摩ひがしちくま郡・松本市と境し、西は飛騨山脈のやりヶ岳・穂高岳・やけ岳・安房あぼう峠・乗鞍のりくら岳・野麦のむぎ峠をもって岐阜県と境し、北は中房川・高瀬たかせ川をもって北安曇郡と境し、東は犀川・田沢山をもって東筑摩郡と境している。

郡名の初見は、天平宝字八年(七六四)一〇月の正倉院御物布袴墨書銘で、「信濃国安曇郡」とある(正倉院宝物銘文集成)。大同三年(八〇八)成立と伝えられている「大同類聚方」に、透立薬(腹痛薬)を造る「安曇郡県首」がみえる。「延喜式」神名帳に「安曇アツミ郡」とあり、「和名抄」に「安曇郡阿都三」とある。明治一一年(一八七八)七月郡区編成法がしかれ、翌一二年に安曇郡が南北に分れる。

〔原始〕

縄文前期の土器が安曇村番所ばんどこ・梓川村大久保朝鮮原おおくぼちようせんばらに出土し、縄文中期の土器が奈川村学間がくま・安曇村稲核蒲田いねこきがまだ・梓川村北々条神道原きたきたじようじんどうはら・同小室長者屋敷おむろちようじややしき・三郷村北小倉一本松きたおぐらいつぽんまつ・穂高町牧離山まきはなれやま・穂高町矢原やばらなどに出土している。弥生式土器は、烏川扇状地の末端の穂高町等々力巾上とどろきはばうえ・同柏原かしわばら・同穂高神社境内・中房川扇状地末端の同耳塚みみづか・大口沢出口の豊科町田沢町田たざわまちだ・黒沢川流域の三郷村小倉黒沢右岸・同長尾堂平ながおどうだいらで出土している。山麓では穂高町牧離山まきはなれやま・しょうのひなた、堀金村田多井たたい・ろうくぼ下、三郷村南小倉山腰・堂屋敷、梓川村大久保朝鮮原などで出土している。古墳は末期のものばかりで、新旧両「南安曇郡誌」によると、その分布状況は梓川村大久保六、三郷村小倉四、堀金村田多井三、同岩原いわはら二、穂高町牧一四、同塚原つかはら一〇、同小岩岳こいわたけ矢村やむら宮城みやしろ四七、同上原うえはら一である。

〔古代〕

安曇郡の郡名はこの地に安曇氏が栄えたことによるもので、安曇氏の初見は、天平宝字八年一〇月の正倉院御物布袴墨書銘で、「信濃国安曇郡前科郷戸主安曇部真羊調布壱端長四丈二尺広二尺四寸 主当国司史生正八位上中臣殖栗連梶取郡司主帳従七位上安曇部百鳥 天平宝字八年十月」とある(正倉院宝物銘文集成)。「延喜式」によれば、安曇郡に「穂高神社名神」がみえ、この穂高神社は穂高に坐す神の社、または穂高神を祀る社の意であって、「新撰姓氏録」に右京の安曇宿禰は「海神綿積豊玉彦神子、穂高見命之後也」とあるように、安曇氏の奉斎する神社である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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