朝日日本歴史人物事典 「木曾義昌」の解説
木曾義昌
生年:天文9(1540)
安土桃山時代の武将。信濃国(長野県)木曾の領主義康の子。伊予守,左馬頭。弘治1(1555)年に甲斐(山梨県)の武田信玄に下り,その娘を妻とした。武田氏のもとで支配域を拡大し,木曾郡全域を領した。武田氏に衰えがみえ始めると,いち早く織田信長に内通する。天正10(1582)年2月これを知った武田勝頼の軍が木曾に攻めてくると,織田信忠の援軍を得て鳥居峠で破った。同年3月信長から安曇・筑摩両郡を加増されたが,6月に信長が死んだため実際の支配はできず,2郡の領有を小笠原貞慶と争うことになる。同18年の小田原攻めののちは徳川家康の関東移封に従い,下総の海上郡に1万石を領して網戸(千葉県旭市)に居館を構えた。山梨県では裏切り者とされ,木曾では勇敢な領主とされるが,小領主として戦国時代を泳ぎ渡った典型的な人物である。なお,没した日を13日とする説もある。<参考文献>『岐蘇古今沿革志』『木曾福島町史』
(笹本正治)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報