奈川村(読み)ながわむら

日本歴史地名大系 「奈川村」の解説

奈川村
ながわむら

[現在地名]奈川村

初見は天正一一年(一五八三)八月一四日、小笠原貞慶が二木豊後守にあてた書状に「那かわ」とある。

川浦かわうら神谷かみや木曾路原きそじばら曾倉そぐら大平おおだいら追平おいだいら金原かなばら古宿ふるやど黒川渡くろかわど田萱たのかや屋形原やかたはら入山にゆうやまで縄文式土器・石器を出土し、奈良部ならぶ・金原で須恵器、保平ほだいら・金原で土師器及び住居跡、金原・追平・古宿で灰釉陶器の破片、金原のみどう原で瑞花双鳥を鋳出した八稜鏡を出土している。入山は古代に水銀を産出。現波田町を中心に展開した古代大野牧の奥原としての役割を果し、中世には西牧氏の所領として松本平の山林資源の供給地であった。江戸時代には尾張藩に編入されている。

慶長七年(一六〇二)の木曾御成ケ郷帳(斎藤縫喜氏蔵)によると、尾張藩に対する年貢は榑木五千丁、米六石九斗で、榑木一丁について米三合ずつの扶持米を前々から出すとされている。米を年貢としていても水田があったわけではないので、大豆(五割増)・小豆(同額)・蕎麦(二倍)・稗(三倍)畑作物で代納した。このほかに買榑一万二千丁があった。買榑は一丁について米五合ずつの扶持米が出された。享保六年(一七二一)一二月年貢榑木一万七千梃を出材している(斎藤縫喜氏蔵文書)。このほかに、白木・材木・薪等を藩命によって伐採したり、運上金を納めて伐採している。元禄六年(一六九三)には松本藩の大野川おおのがわ村・島々しましま村・いねこき(以上安曇村)とともに松本藩用の薪を奈川山から伐り出している(奥原林重氏蔵文書)。元禄一三年には善光寺普請用の屋根板一四万枚(長さ一尺五寸―二尺一寸、厚さ五、六分、幅三―五寸)を出している。

弘化三年(一八四六)「奈川村川浦大白川御番所御取建ニ付通用白木荷物書上帳」(勝山喜和蔵氏蔵)によれば、野麦のむぎ村ほか九ヵ村の飛騨山と大野川村の信濃山から黒部天井板(七四枚)、椹禰木小柾板(二五枚)、桶木(四個)、檜禰木麻引板(四〇〇枚)、曲ヶ輪等を買い入れ、江戸・上州、当国上田・善光寺・松本へ付け出して売っている。

奈川村
ながわむら

面積:一二〇・五六平方キロ

南安曇郡の最西南端に位置している山間村。標高一〇〇〇―一二〇〇メートル。当村は断層によって生じた盆地に立地しているため深谷をなしている。奈川谷にはくろ川・さかい川等の支流があって、奈川との合流点をそれぞれ黒川渡くろかわど寄合渡よりあいどといっており、この合流点付近に集落を発生している。また、あずさ川との合流点を奈川渡ながわどといい、昭和四三年(一九六八)にダムが建設されている。松本平からの入口の入山にゆうやま集落からこの渓谷の最奥の川浦かわうら集落までおよそ一二キロの間、つのだいら(昭和四三年、湖底となる)かや古宿ふるやど黒川渡・屋形原やかたはらこまはら金原かなばら追平おいだいら大平おおだいら曾倉そぐら・寄合渡・神谷かみや保平ほだいらなどの小集落が点在している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報