日本歴史地名大系 「吉志郷」の解説
吉志郷
きしごう
現門司区吉志に比定される。文永九年(一二七二)一〇月九日の門司六ヶ郷惣田数注文写(甲宗神社文書/鎌倉遺文一五)によると、「吉志郷」内には安枝二町七反・行安五反・吉任九町四反余・小名五町三反余・吉田一町九反余・宗永六反・熊元三反や金武などの名田が散在した。当地には宇佐宮領も所在し、建久八年(一一九七)の豊前国図田帳写(到津文書/鎌倉遺文二)に宇佐宮領「加納恒見庄九十町」の内に「吉志十丁」とみえる。鎌倉期に下総氏(のちの門司氏)が下向、のち吉志系門司氏が土着。南北朝動乱では武家方として活躍する(貞治四年四月日「門司親尚軍忠状」門司文書/南北朝遺文(九州編)四)。応永の乱後に大内氏家督相続争いが勃発すると、吉志系門司親常は大内盛見方に馳せ参じたようで、盛見の家督相続後の応永九年(一四〇二)に「門司北方吉志郷国衙分」の還付を受けている(同年四月二〇日「大内盛見宛行状」同文書/門司市史)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報