吉野辺村(読み)よしのべむら

日本歴史地名大系 「吉野辺村」の解説

吉野辺村
よしのべむら

[現在地名]小野町吉野辺

飯豊いいとよ村の北東の山間地に立地。右支夏井うしなつい川支流の吉野辺川が南流する。磐城街道小野新町おのにいまち村から北境の風越かざこし峠越で栗出くりで(現大越町)に至る(昭和五八年風越トンネル開通)。もと飯豊村の枝郷として開発された村という(年未詳「小野六郷本村枝郷書上」小野町史)。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に吉野辺とみえ、高四七二石余、田丸氏の知行地。寛永四年(一六二七)会津藩領から白河藩領となり、寛保元年(一七四一)越後高田藩領、文政三年(一八二〇)から幕府領。元禄期(一六八八―一七〇四)の白河藩領高付帳(小針家文書)では本田高四七二石余・改出高一〇一石余・新田高三一石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

「歓喜の歌」の合唱で知られ、聴力をほぼ失ったベートーベンが晩年に完成させた最後の交響曲。第4楽章にある合唱は人生の苦悩と喜び、全人類の兄弟愛をたたえたシラーの詩が基で欧州連合(EU)の歌にも指定され...

ベートーベンの「第九」の用語解説を読む