飯豊村(読み)いいとよむら

日本歴史地名大系 「飯豊村」の解説

飯豊村
いいとよむら

[現在地名]北上市飯豊町 飯豊

北上川の小支流飯豊川流域に位置し、同川の氾濫原とその両岸の洪積台地からなる。東は二子ふたご村・成田なりた村、北は稗貫ひえぬき下根子しもねこ(現花巻市)、南は村崎野むらさきの村。岩崎いわさき(現和賀郡和賀町)に向かう道が通った。享和三年(一八〇三)の仮名付帳に「イイデ」とあり、「いんで」「えんで」ともよばれる。村内に飯豊いんで森があり、「延喜式」神名帳に載る胆沢いさわ郡「和我叡登挙ワカエトノ神社」に比定される。飯豊川両岸の台地からは縄文時代中期の土器・土師器・須恵器などが出土し、古代には農耕神の飯豊神を中心に開拓が行われたものと考えられる。


飯豊村
いいとよむら

[現在地名]小野町飯豊

小野新町おのにいまち村の北の丘陵山地に立地。中央を南東流する右支夏井うしなつい川流域に平坦地が開けている。磐城街道が通る。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に飯豊とみえ、高二千一六一石余、田丸氏の知行地。寛永四年(一六二七)会津藩領から白河藩領となる。文政一三年(一八三〇)の飯豊村領主歴代(福島県史)では、寛永二〇年から白河藩領とする。寛保元年(一七四一)幕府領、寛政二年(一七九〇)越後新発田藩領と変遷、文政一三年から幕府領。寛永四年の田村郡高目録写(石井家文書)では高二千一六一石余。


飯豊村
いいとよむら

[現在地名]天栄村飯豊

高林たかはやし村の西、釈迦堂しやかどう川北岸の丘陵に立地。文保二年(一三一八)二月一六日の関東下知状(熱海白川文書)に「飯土用」とみえ、白河庄内の飯土用いいとよ村を含む諸村地頭職ほかが結城盛広の知行地として認められている。この飯土用村は現大信たいしん村飯土用とみる説もある。なおこの地を含む盛広の知行跡地は白河庄南方に属し、結城宗広・顕朝・満朝と伝領されている(延元元年四月二日「結城宗広譲状案」白河古事考など)


飯豊村
いいとよむら

[現在地名]田子町はら 飯豊

熊原くまはら川の上流に位置し、東は田子村、西は佐羽内さばない村、北は原村白坂しらさか村、南は二戸にのへ根森ねもり(現岩手県二戸市)に接する。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付に村名がみえ、高八四・五九八石とある。七ヵ年平均の免は一ツ六分九厘九毛。寛政年間(一七八九―一八〇一)の「邦内郷村志」には蔵分一五・七石余、給分九七・三石余とある。


飯豊村
いいどよむら

[現在地名]遠野市土渕町飯豊つちぶちちよういいどよ

柏崎かしわざき村・土淵つちぶち村の南にあり、南は糠前ぬかまえ村。土淵村から南西方青笹あおざさ村に至る道が通る。「いいで」「いで」ともよばれる。文治五年(一一八九)源頼朝が藤原氏を滅ぼしたのち阿曾沼広綱に遠野一二郷を与えたが(阿曾沼興廃記)、このうちの上六郷に当地も含まれたという。寛永四年(一六二七)の南部利直知行宛行状(三翁昔語)によれば、飯豊村の高四七石余が八戸弥六郎直義(遠野南部氏)知行地となった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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