危機とは、ギリシア語の「分離」を意味することばkrineinに由来しており、元来、回復と死の分岐点になるような、病状の突然の決定的な変化を示唆する医学用語として用いられてきた。そうした語源から、危機とは通常、ある状態の安定に否定的に影響を与えるような不測の緊急事態の発生、もしくはある事象の決定的または重大な段階を示す分水嶺(ぶんすいれい)とみることができる。したがって、そうした危機は、人間個人に始まって家族、企業、地方の自治体、一国の政府、そして国家間関係といったすべての領域次元において生じ、さらにその危機の内容も、人間個人の肉体的、精神的な面から、国家の政治経済や社会の体制危機、大規模な自然災害、放射能漏れなどの重大事故、大量殺傷型テロなどの重大事件など多岐にわたっている。国際社会ではかつてキューバ危機(1962)やエネルギー危機(1974)などを経験したが、日本では阪神・淡路(あわじ)大震災(1995)、アメリカでは9・11同時多発テロ(2001)など、突然の大量死傷者の発生という危機を経験した。とくに大量殺傷型テロリズムの横行は21世紀の新たな危機要素になっている。
こうしたさまざまな危機に対応するために、企業、自治体や政府、さらには国際社会などの次元において、危機管理crisis management能力の向上・強化が模索されている。それは、危機が知覚された場合、ただちに危機を効率的に管理し、その影響を最小限にとどめ、平常もしくはそれに近い状態に戻すことを意図している。
アメリカではカーター大統領時代の1979年に連邦危機管理庁Federal Emergency Management Agency(FEMA(フィーマ))を創設し、重大事故や重大事件の発生に対する機敏な対策を講じるための制度を整えてきた。それに比較して日本では不測の緊急事態に対する対応能力は低く、1982年(昭和57)にようやく政府が行政改革推進審議会に検討を求める状態であった。結局、日本政府の対応能力の低さは1995年(平成7)1月に発生した阪神・淡路大震災でも露呈し、被災者への救援・支援活動などを含めて敏速な行動はとられなかった。また国際的な危機管理への関心は1984年6月のロンドン先進国首脳会議(サミット)で取り上げられ、地域紛争が国際的な危機に発展した場合に先進国間協力に基づく危機克服策を講じる旨討議された。こうした考えはアメリカ同時多発テロ以後いっそう強まっており、先進国サミットや国連の場において国際的な反テロ・ネットワークの構築が主要議題になっている。しかし一方で、危機管理に比重を置くあまり、やみくもに現状維持を肯定する結果にもなりかねない。つまり危機はそれ自体否定的な要素であるといえるが、同時に危機の背景には現状に問題点があることをも示唆しているからである。したがって、危機に関する情報を質・量ともに徹底的に収集・分析することが肝要になってくるのである。
[青木一能]
『大泉光一著『災害・環境 危機管理論――企業の災害・環境リスク管理の理論と実践』(1995・晃洋書房)』▽『森本敏著『安全保障論――21世紀世界の危機管理』(2000・PHP研究所)』▽『大森義夫著『「危機管理途上国」日本――万一の事態にどこまで対応できるのか?』(2000・PHP研究所)』▽『田中伯知編著、福地建夫著『危機管理の社会学――災害・紛争・シーレーン』(2001・北樹出版)』▽『横浜商科大学公開講座委員会編『危機の時代と危機管理――21世紀の社会を読む』(2001・南窓社)』▽『佐々淳行編著『自然災害の危機管理』(2001・ぎょうせい)』▽『大泉光一著『危機管理学研究』(2001・文真堂)』▽『小川和久著『危機と戦う――テロ・災害・戦争にどう立ち向かうか』(2001・新潮社)』▽『歳川隆雄著『日本の危機管理』(2002・共同通信社)』▽『大泉光一著『クライシス・マネジメント――危機管理の理論と実践』三訂版(2002・同文舘出版)』▽『木村汎編『国際危機学――危機管理と予防外交』(2002・世界思想社)』▽『滝実著『一人ひとりを大切にする国家――危機管理の原点を求めて』(2002・日本法制学会)』▽『五十嵐敬喜・立法学ゼミ著『都市は戦争できない――現代危機管理論』(2003・公人の友社)』▽『広島市立大学広島平和研究所編『人道危機と国際介入――平和回復の処方箋』(2003・有信堂高文社)』
それが個体であろうと集合体であろうと,有機体が,外部圧力あるいは内部矛盾によって,本来それに備わっているとされる機能の正常な運行がいちじるしく阻害され,有機体の存続そのものが危殆に瀕するような病態に陥ること。その場合重要なことは,病態から常態への復帰をめぐって,有機体の内部で,その存立原理や基本構造はそのままにしておいて機能障害をひきおこした部分のみの治療や補修をはかろうとする力と,本来病因を内蔵した古い体質の全面的な転換によって新たな生命体への蘇生をはかろうとする力とが,激しく葛藤しあっている決断と転回の時だということである。
今日の組織された後期資本主義時代における危機は,この種の危機理論を確立したマルクスの時代のそれと比較すると,いちじるしく複雑化し重層化してきている。たしかに,危機を招来する決定的メカニズムとしての資本主義社会の組織原理が内包する構造的矛盾,すなわち社会的生産と私的所有との間の基本的矛盾という事態は,本質的に変化してきていない。したがって,マルクス主義によって指摘された三つの危機,すなわち(1)資本制生産に不可避な好況・不況という循環的な運動,とくに利潤率の循環運動と結びついた短期的な周期的危機,(2)利潤率の長期的な低落傾向と結びついた恒久的な構造的危機,(3)過当競争と無計画の結果である不均等発展と結びついた特定産業部門の危機は,今日でもなお存在し,社会の不安定要因となっている。だが,こうした経済システムの危機の制御と解決のために,資本主義国家がそこに積極的に介入し,その政治・行政システムをとおして〈危機管理〉にのりだしてきて以来,危機は経済システムの領域を超えて,政治行政システム,さらには社会・文化システムにまで及ぶ,きわめて広範で深刻なものとなってきている。いわゆる〈危機管理の危機〉の登場である。
経済システムから危機管理を付託された資本主義国家は,かつてのように資本家階級の特殊的利害のみに排他的に奉仕するわけにはいかなくなった。この危機をもって,社会的再建と人間的解放の好機ととらえる労働者階級や市民層による革命的運動や反乱を恐れるからである。そのためには,一方において,資本蓄積の危機を回避するための国家・公共セクターにおける社会資本を増強するとともに,他方,社会的緊張を回避して社会統合を維持していくための社会支出を遂行しなければならない。つまり,一方で,生産のインフラストラクチャーinfrastructure(交通,エネルギー,テクノロジー,地域開発等)への公共投資を進め,社会消費(住宅建設,医療・保健,教育,レジャー等)の費用負担のための社会保障を整備するとともに,他方,社会的調和を保持するための公共サービスの充実によって福祉の制度化を推進するのである。
こうした福祉国家の出現によって,ある程度経済システムの危機が解消したことは事実である。先進的産業社会における〈豊かな社会〉の出現がそうである。だが,こうした福祉国家における社会資本の基盤が税収に依存するものであるかぎり,オッフェClaus Offeによって〈管理的再商品化〉戦略と名付けられたように,階級性を堅持する福祉国家で,国家の財政危機という事態が生ずることは必至である。そればかりではない。税制の階級的不平等と公共資源の配分における選別的不公正は,民衆の間に政治・行政システムに対する不信と不満を盛り上げ,民主主義的政治システムにとって不可欠の〈大衆の忠誠〉の調達がきわめて困難になるという事態が生ずる。加うるに,国家介入主義,とりわけその中心的価値体系である機能的(道具的)合理主義の支配によって,いちじるしく圧迫され萎縮した市民社会の規範体系は,民衆の間から自律性や能動性を失わせ,自己アイデンティティを稀薄化させるという状態を招いた。J.ハーバーマスはこのような全般的なシニシズムとアパシー(無関心)の浸透を〈正当性の危機〉と名付けた。
ところで,危機および危機管理の危機は,社会の解体や個人のアノミーを促進するばかりでなく,このような矛盾をはらんだ全体構造やサブシステムの真相を理解し,そうした体質のラディカルな変革へと志向する者にとっての解放の好機でもある。だが,かつて危機克服の先頭に立っていた労働運動と社会民主主義的政党は,〈ネオ・コーポラティズム〉と呼ばれる福祉国家の再統合・併呑の装置によって,そのシステムのなかに編入されたかの観を呈している。それに代わって,今日社会運動を担っているのは,大量消費や文化的再生産の場面で発生するシステムの矛盾を正しくとらえ,草の根次元で議会外的な抗議運動を展開している市民運動である。それが公害・エコロジー・差別・平和・反核・民族の自決等の具体的な要求課題を集合的行為を通じて実現する努力を続けるとともに,疎外・物象化・支配などが君臨しない共同体的側面をその運動組織内に定着させる努力を続けるならば,それは今日たとえ小規模のものであっても未来を切り開くものになるだろう。
執筆者:高橋 徹
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
… 牧師の子に生まれ,学生時代から演劇活動を始め,脚本家として映画界入り。44年,自作のシナリオがアルフ・シェーベルイ監督によって映画化され,翌45年,《危機》で監督としてデビュー。《不良少女モニカ》(1952)で世界的に知られ,《夏の夜は三たび微笑む》(1955)で名声を決定的なものにする。…
…資本主義的商品経済にしばしばくり返されてきた経済的な攪乱(かくらん),麻痺(まひ),破綻(はたん)状態を指す。原語に2系統あり,そのうち,クライシスはもともとは病気の危機的峠を意味し,パニックはギリシア神話の牧神パンの気まぐれのひきおこす狼狽(ろうばい)を意味していた。それゆえ,パニックは資本主義経済の市場機構に生ずる急性的崩壊現象にあてはまり,クライシスはそれをも含めより構造的な経済危機に妥当する用語であって,恐慌という訳語は,文脈によってその両方の事象を含みうる。…
…資本主義的商品経済にしばしばくり返されてきた経済的な攪乱(かくらん),麻痺(まひ),破綻(はたん)状態を指す。原語に2系統あり,そのうち,クライシスはもともとは病気の危機的峠を意味し,パニックはギリシア神話の牧神パンの気まぐれのひきおこす狼狽(ろうばい)を意味していた。それゆえ,パニックは資本主義経済の市場機構に生ずる急性的崩壊現象にあてはまり,クライシスはそれをも含めより構造的な経済危機に妥当する用語であって,恐慌という訳語は,文脈によってその両方の事象を含みうる。…
※「危機」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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