日本歴史地名大系 「坂田郡」の解説
坂田郡
さかたぐん
湖東から湖北にかけて位置し、かつての郡は、北は
「日本書紀」推古天皇一四年五月五日条に「坂田郡水田二十町」を鞍作鳥に与えたとあり、同書天智天皇三年(六六四)一二月条には「坂田郡人小竹田史身」とみえており、坂田評の存在をうかがわせる。承平元年(九三一)成立という「竹生島縁起」(諸寺縁起集)に「気吹雄命、坂田姫命二神、下坐淡海国坂田評之東方」と坂田評の存在を示す記述があるが、その史料性に疑問が残る。異表記に「尺太郡」(長屋王家木簡)、「積太郡」(天平五年「山背国愛宕郡計帳」正倉院文書)があるが、六国史等の表記はすべて坂田だから、これが正規のものであったと思われる。以上のように郡成立の時期は不明だが、遅くとも八世紀初頭までには建郡(建評)されていたとみられる。ただ地名としての坂田の登場は古く、允恭天皇妃の衣通郎姫は「近江坂田」にいたといい(「日本書紀」允恭天皇七年一二月一日条)、「古事記」応神天皇段の坂田酒人君や「日本書紀」継体天皇元年三月一四日条の坂田大跨王などの坂田という地名にちなむ氏族名・人名もみられる。訓は「和名抄」東急本国郡部に「佐加太」とあり、「節用集」は「サカダ」とする。通用は清音である。
〔原始〕
旧郡域で発見されている縄文時代のおもな遺跡に、長浜市の
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報