大久野村(読み)おおぐのむら

日本歴史地名大系 「大久野村」の解説

大久野村
おおぐのむら

[現在地名]日の出町大久野

現日の出町域の西部・北部を占める。村の西方三ッ沢みつざわの谷に源を発した南大久野川が南東へ流れ(風土記稿)、同じく南東方へ流れてきた北大久野川を合せて大久野川となり、平井ひらい村に入って平井川となる。村は大きく二つの谷からなり、河川の合流点付近から谷口が開けて東の平井村に連なる。南大久野川沿いに御嶽みたけ道が通り、御嶽山参詣者の通行が盛んであった。参詣道の途中には肝要かんようがあって、「古は神入と書しよし、この所に御嶽山の遥拝殿ありし」という(同書)。平井村から入ってきた鎌倉街道が北大久野川沿いをさかのぼり、青梅おうめ・秩父方面に通じた。小名新井あらいの白山神社所蔵の銅鏡にかすかながら「建武五己卯年日奉守吉敬白」とみえる。建武五年は暦応元年(一三三八)にあたるものの、己卯は暦応二年で合わない。同所蔵の大般若経に「惣奉行人別三百内大檀那兵部大輔正五位下平朝臣氏重」「貞治五丙午年四月日」などの奥書がある。氏重は西(日奉)党平山氏で、鎌倉幕府創設時に活躍した平山武者所季重の末孫にあたり、檜原ひのはら(現檜原村)城主として甲斐武田氏の進攻を阻止する役割を担う小田原北条氏の重臣に連なるものであろう。小名細尾の山祇ほそおのさんぎ社所蔵鰐口に「奉掛武蔵大久野郷山神鰐口 至徳三年丙寅三月十日 日奉守吉」の寄進名がある。小名坂本さかもとの神明社に永禄二年(一五五九)一二月一八日の社殿造立棟札が現存しているが、大檀那日奉朝臣平山綱景の名がみえ、同七年一二月三日の遷宮棟札にも大檀那平山平左衛門尉綱景と記される。同一二年一一月七日の北条氏照朱印状写(風土記稿)によれば、「大久野之内落合」の一貫二〇〇文、大久野の五〇〇文が番匠落合四郎左衛門に宛行われている。この番匠は落合おちあいを拠点とするもので、天正一六年(一五八八)頃、八王子城の普請に動員されている(正月八日「北条氏照朱印状写」同書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報