大伴益立(読み)おおとものますたて

朝日日本歴史人物事典 「大伴益立」の解説

大伴益立

生年生没年不詳
奈良時代武官天平宝字4(760)年雄勝城および桃生城(宮城県河北町)の築城を賞した際,鎮守軍監で,艱苦を辞せず再征したとして特に3階進められ従五位下に昇った。5年陸奥鎮守副将軍,鎮国驍騎将軍(中衛少将)となり,6年陸奥介を兼ねた。神護景雲1(767)年伊治城(宮城県築館町)築城の功で正五位上に進み,以後兵部大輔などを歴任宝亀6(775)年遣唐副使に任じ,翌年11月,出発時機を過ごして大使佐伯今毛人が帰京したときに大宰府(太宰府市)にとどまって入唐の時機を待ち,時人に称賛された。伊治呰麻呂の乱(780)が起こると,征東副使となって陸奥守を兼ね,従四位下に叙されたが,戦機を失い逗留したことから天応1(781)年位を奪われた。延暦2(783)年には正五位上で再び兵部大輔に任じた。承和4(837)年に子の野継が無実を訴えて父の恥をそそぎ,本位従四位下が贈られた。

(佐藤信)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「大伴益立」の解説

大伴益立 おおともの-ますたち

?-? 奈良時代の官吏
天平宝字(てんぴょうほうじ)5年(761)陸奥(むつ)鎮守副将軍となり,神護景雲元年伊治(いじ)城をきずいた功で正五位上となる。兵部大輔,大宰少弐などを歴任。宝亀(ほうき)11年伊治呰麻呂(あざまろ)の乱に出征し,進軍しなかったことを理由に従四位下の位階をうばわれたが,のち従四位下に復す。

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