官人社会における個人の地位を表す序列・等級。
日本における位階制は603年(推古11)の冠位十二階に始まる。これは,官人序列を冠の色によって表そうとするもので,源流は朝鮮半島の制度に求められる。徳・仁・礼・信・義・智の各冠を大小に分けた12階から成るが,ただし,全官人に適用されたものではなく,最上位の徳冠が後の四位に相当すると考えられている。《日本書紀》によると,その後647年(大化3)には七色十三階が導入され,全官人を対象とする位階が成立し,649年には冠位十九階,664年(天智3)には冠位二十六階が制定されたことになっているが,その具体相についてはなお検討すべき点を残す。685(天武14)には爵位六十階が成立し,飛鳥浄御原令に受け継がれた。ここでは,皇親の爵位として明(みよう)・浄(じよう)(12階),諸臣の爵位として正(しよう)・直(じき)・勤(ごん)・務(む)・追(つい)・進(しん)(48階)が設定された。律令位階制の骨格はここにおいて成立し,701年(大宝1)の大宝令制に発展的に継承された。
大宝令は逸文を残すのみであるが,その位階制は,養老令のそれと同一であったとされている。皇親の位は親王のみに制限され,一品~四品までとされた。諸王および諸臣の位は特別に品位(ほんい)と称されるが,その対象は,正一位~少初位下までとされた。一位~三位までは正・従に分けられ,四位~八位までは正・従,初位は大・小に分けられたうえでさらに上・下に分けられた。また位階をあらわすものとしての冠制は廃止され,かわりに位記が与えられるように改められた。
この位階は官位相当制と呼ばれる規定によって,官職と対応させられており,朝廷における個人の地位をあらわすと同時に,官職に就くための基礎的な資格をもあらわした。一般に,三位以上を〈貴〉,五位以上を〈通貴〉と称し,それ以下と区別したが,それぞれの間には待遇上大きな差が設けられており,とくに五位と六位の間の差は大きかった。貴族階級とされるのは五位以上のものを指すと考えてよい。有位者は食封(じきふ),位禄,季禄,位田等を給されたが,食封は親王(800~300戸)と三位以上(300~100戸),位禄は四位・五位,位田(品田)は親王(80~40町)と五位以上(80~8町)を対象とした。季禄は春秋2季に,各人の官職の相当官位に応じて支給されるもので,六位以下の官人もその対象となった。また,親王および三位以上の官人には家令を置くことが許され,彼らを含めて五位以上の者には警固や駈使のために,帳内(親王160~100人)や資人(五位以上100~20人)が給された。このほか,皇親と三位以上の者の父祖・兄弟・子・孫,五位以上の父・子,八位以上の者には課役免除の特権が与えられ,五位以上の子弟,六~八位の子で志願する者には大学への入学が許された。さらに,有位者には刑の軽減に関する蔭贖(おんしよく)の特権もあった。
高位者の子孫には出身の際にも特典が認められており,親王の子には従四位下,諸王および五世王には従五位下,一位~五位までの者の子には従五位下~従八位下が,一般の授位年齢25歳より前の21歳に達すると与えられることになっていた。また,三位以上の場合には孫にも,子より1階下の位が与えられた。これを蔭位(おんい)というが,これによって,高位の者の子孫はきわめて有利な昇進が可能であった。また,官吏登用試験の合格者には,その科目・成績によって正八位上~大初位下が与えられた。位階の昇進にあたっては,毎年の勤務評定の結果を一定年数集積し,その総合成績によって昇進階数が決定されるしくみになっていたが,実際に計算どおりの昇叙が行われたのは六位以下の場合にかぎられ,五位以上の昇進には天皇の意向が強く反映した。授位手続上,五位以上は勅授,内六位~内八位までは太政官奏による奏授,外八位および初位は太政官の判定による判授とされた。
大宝令には五位以下の位について,外位(げい)が設けられていたが,これは,地方採用を原則とする官職に就く者を対象としたものであった。一方,728年(神亀5)には外五位制が導入されるが,これによって六位から五位への昇進に当たって,一部の氏の出身者は外五位を経由せねばならなくなった。これは貴族層の中に,家柄・門地による昇進上の差を設定するものであった。また,唐制に倣い武功を処遇するための勲位(12等)も設定されたが9世紀末ころには神社帯勲を除いて姿を消す。位階制の運用は平安時代に入ると形骸化が進み,年給や成功(じようごう)による叙位も盛行し,官人の昇進コースと家柄の固定によって叙位のあり方も大きく変化し,勤務成績もほとんど問題とされなくなる。位階に伴う特権にも変質がみられるが未解明の部分が多い。しかし,位階そのものは中世・近世を通じて無意味なものとなったわけではなく,基本的な骨格は変わることなく,明治維新まで存続した。
→位階勲等 →官位
執筆者:玉井 力
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
「官人を等級づける」標識。603年(推古天皇11)の冠位十二階制で創設されたが、647年(大化3)の七色十三階制、649年の冠位十九階制を経て、664年(天智天皇3)の冠位二十六階制に発展した。ついで672年の壬申(じんしん)の乱を経て、685年(天武天皇14)には冠位六十階制(皇親十二階、諸臣四十八階)が制定されたが、この冠位制が689年(持統天皇3)6月に施行された浄御原令(きよみはらりょう)の位階制になった。そして701年(大宝1)の大宝令(たいほうりょう)位階制で、その体系性を完成した。親王は一品(いっぽん)から四品まで四階、諸王は正(しょう)一位から従(じゅ)五位下まで十四階、諸臣は正一位から少初位(しょうそい)下まで三十階という基本系列を中心にして、唐の視品(しひん)制をモデルにした外位(げい)制と、勲官制を継受した勲位制とが、傍系系列として創設されている。外位制は外正五位上から外少初位下までの二十階で、郡司、軍毅(ぐんき)や帳内(ちょうない)、資人(しじん)など、地方豪族以下が任ぜられる官職や、蝦夷(えみし)、隼人(はやと)らの有功者に授けた。また勲位制は勲一等から勲十二等までで、主として対蝦夷・隼人軍事行動の有功者に授けられた。そして内・外五位以上は貴族官僚として勅授され、内八位、外七位以上は奏授、外八位、内・外初位は官判授とされた。757年(天平宝字1)5月に施行された養老(ようろう)令の位階体系も、大宝令制とまったく同じであり、以降1000余年の長きにわたり実施されたが、勲位、外位はしだいに消滅化して、1869年(明治2)の新位階制(二十階)に及んだ。1887年、正・従一~八位の十六階となり、1889年その対象を臣下のみに限った。第二次世界大戦後、位階は死者に対する追賜以外は授与が停止されている。
[野村忠夫]
『野村忠夫著『官人制論』(1975・雄山閣出版)』
律令制における官人の序列を示す等級。養老令では,親王は一品(いっぽん)~四品,諸王・諸臣は一位~八位および初位(そい)(諸王は五位以上)からなり,一位~三位は正(しょう)・従(じゅ)の各2階,四位~八位は正・従をさらに上・下にわけ各4階,初位は大・少を上・下にわけ4階,合計30階からなる。また五位以下には内位と外位(げい)の別がある。官人は原則として,その帯びる位階に相当する官職に補任され(官位相当制),所定年数の勤務成績により位階が昇進する。位階に応じて種々の特権があり,三位以上を貴,五位以上を通貴(つうき)といい,六位以下との差は大きかった。また以上の文位(ぶんい)のほかに勲位の制もある。位階制は形骸化しながら明治維新まで存続し,明治期以後も内容を変更して現在に至っている。
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…第2次大戦前の日本において,爵と並んで天皇大権に基づく栄典制度の根幹をなすものであった。律令時代以来の伝統的な位階と西洋諸国をモデルとした勲章との和洋折衷的組合せに,日本の近代化が象徴されている。位階は,603年(推古11)聖徳太子による冠位十二階を端緒とし,律令制における官人の序列を示す等級であった。…
…位階を授けるときに発給する公文書。飛鳥浄御原令の施行にともない689年(持統3)はじめて発行されたが,このときは冠位と位記を併用した。…
…位階体系の中心系列である内位,傍系的な外位(げい),勲位を授けること。令制で位階を授ける方式は,内・外五位以上を授ける勅授,内八位・外七位以上を授ける奏授,外八位および内・外初(そ)位を授ける官判授に分かれるが,勲位は六等以上が勅授,七等~十二等が奏授であった。…
…神社の祭神に奉った位階のこと。神位ともいう。…
※「位階」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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