改訂新版 世界大百科事典 「大塔合戦」の意味・わかりやすい解説
大塔合戦 (おおとうがっせん)
1400年(応永7)9月守護の信濃支配に反発する北信・東信の武士がひき起こした合戦。先祖以来の信濃守護職に就任した小笠原長秀は善光寺に入って一国の政治を始めるが,尊大で,そのうえ川中島平の強豪武士村上氏の所領などにも守護使を入れたりした。その強圧的な領国支配に怒った村上氏や,観応の擾乱いらい小笠原氏とは故敵当敵の関係にあった大文字一揆などが中心となり,これに北信・東信のおもだった武士が連合して挙兵し,現長野市篠ノ井の地に布陣した。制圧に向かった守護軍は大軍を相手に奮戦するが敗れ,長秀は塩崎城に逃れた。しかし後続部隊は行く手をさえぎられて大塔の古要害に走り,悲惨な籠城戦のすえ散った。現二ッ柳大当に比定され,わずかに低地に城館の面影をとどめている。命運つきかけた長秀は一族大井光矩のあっせんによって和解し京都に帰ったが,守護職を失い領国支配は失敗に終わった。小笠原軍の武将坂西長国の奮戦と討死を中心にこの合戦のてんまつを描いた《大塔物語》は,俗字を交えた特異な文体と叙述の構成から,中世後期の唱導文学と考えられ,作者に善光寺の妻戸時衆を擬する説が有力である。
執筆者:湯本 軍一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報