大学事典 「大学本校」の解説
大学本校
だいがくほんこう
明治新政府は旧幕府直轄の昌平坂学問所,開成所,医学所を復興し,昌平学校,開成学校,医学校を設けたが,1869年(明治2)6月,これらの学校を統合して大学校を創設した。その際,国学・漢学(儒学)を講じる昌平学校を大学校本校,開成学校と医学校を大学校分局としたが,同年12月に大学校を大学(大学校)と改称した。大学本校は昌平坂学問所の施設をそのまま用いたものの,内容面では漢学に対して国学優位の立場を取ったため,国漢両学派の対立抗争が展開されることになった。そのため行政官庁としての大学は,学制改革のため1870年2月に大学規則・中小学規則を定めるが,これは洋学系統の学校計画であったことから,強い不満を持った国漢両学派は洋学派と対立することになった。こうした大学内部の対立は解消されることなく,同年7月,学制改革を理由に大学本校は当分の間休校となり,そのまま再開されることなく閉鎖された。
著者: 橋本鉱市
出典 平凡社「大学事典」大学事典について 情報