江戸幕府直轄の学問所。江戸湯島にあり昌平黌(しようへいこう)ともいう。1790年(寛政2)寛政改革の一環として聖堂預りの林大学頭(信敬)に教学伸張の令(寛政異学の禁)を発し,つづいて学制規則を定め,庁堂学舎改作や教官増強の議がなされた。林家(りんけ)に依存した教育体制を改め,幕府直属の教育機関として制定したのである。柴野栗山,岡田寒泉,尾藤二洲が儒官に任ぜられ,92年には教官官舎,講舎もでき上がり,学校としての制規がやや成り,廟学併存して講義が開始され,また中川忠英らの監察の下に小学,四書,五経,歴史,策問の諸科の学業試問が行われた。翌93年には林衡(述斎)が家を継ぎ,学規,職員職掌が整備され,94年の学問吟味には237名が応じた。以後,将軍の巡覧,学問吟味,素読吟味が行われ,定日の経書の講義,輪講,会読,詩会,文会や小試,大試の試験も行われた。儒官も古賀精里,佐藤一斎ほかが任用され,林家の家塾とはまったく別の施設となった。1800年,41年(天保12)には一般庶民を対象として仰高門東舎の日講聴聞を奨励した。また,元禄以来の林家の施設を利用したためこれまでの聖堂の呼称が学問所の意味にとられがちであるので,43年には聖堂は大成殿の別称であるから今後は学問所と唱えるようにと達(たつし)が出された。
この学問所は元来旗本御家人の士風振興を目的にしたのであったが,通学のほかに寄宿制度があり,寛政期には御目見(おめみえ)以上の子弟20人,以下10人を収容したが,天保以後は48人まで増員し,すべて官費でまかなった。ほかに書生寮を設置し,林家もしくは儒官の門人であれば諸藩士および処士の入学を許した。これは食費は自費であるが官費の補助があった。学問所の職員には変遷があるが,1817年(文化14)には勤番組頭2名,勤番20名,下番30名が置かれ,62年(文久2)には学問所奉行が設けられて本多正訥,秋月種樹の大名が任命された。そして,その下に儒者衆,学問所頭取,教授所付,地誌調所頭取,和学所頭取(和学講談所の後身),勤番組頭,勤番等が配属される制度となった。その経費は,63年時の調べでは金1919両3分,永245文1分4厘である。また初学者のために学問所直轄の教授所として年次を異にするが深川教授所,麻布教授所,麴町教授所があった。明治新政府はすべてを接収し,1869年(明治2)正月に開校,12月大学と改称し,70年7月の学制改正で休校となり,自然廃校となった。
なお,書庫には林家時代からの漢籍の蔵書が多いが,1845年(弘化2)には天文・暦算・蘭書・翻訳蘭方医書類を板行したときは1部ずつ納めるよう触があり実行された。多数に上る学問所の出版物は官板と称され,斯界に寄与するところ大であった。
執筆者:山本 武夫
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江戸幕府の学問所。1630年(寛永7)林羅山が上野忍ヶ岡に私塾を設立し,門弟の教育を行った。のち徳川義直の援助で,孔子廟(先聖殿)を建立。1690年(元禄3)将軍徳川綱吉の命により神田湯島に移転。林家が大学頭を主宰し,儒教経典の講釈を行い官学化する。聖堂は大成殿となる。1790年(寛政2)寛政の改革によって学舎を新築拡張し,敷地の一角が昌平坂に面していたため昌平坂学問所,昌平黌と称した。昌平坂学問所は朱子学を正学として,幕臣・藩士などの教育を統制した。また旗本の子弟のほか,陪臣・郷士・浪人の入学も許し,諸藩から多くの人材が集った。一般人にも仰高門での日講聴聞を奨励した。通学のほかに寄宿制度もあった。小学・四書・五経・歴史・策問の学業試験があり,学問吟味(15歳以上)や素読吟味(15歳以下)を行った。明治維新後,昌平学校となり,1869年(明治2)には大学校と改称,71年に廃止となった。跡地(現,文京区湯島1丁目)は1872年に師範学校用地となる。旧敷地内に大成殿を有する湯島聖堂が現存(国指定史跡)。
著者: 谷本宗生
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昌平黌(しょうへいこう)とも。江戸幕府直轄の学校。前身は1630・32年(寛永7・9)に設置された林羅山の江戸忍岡(しのぶがおか)邸の学寮・聖廟。91年(元禄4)湯島(現,東京都文京区)に先聖殿(湯島聖堂)を建設し移転。幕府は寛政の改革時に柴野栗山(りつざん)・岡田寒泉(かんせん)らを聖堂付儒者に任じて人材を補強し,施設も拡充,藩士・郷士・牢人の入門を許した。林述斎(じゅつさい)の家督相続後は学規・職制を定め,学問吟味・素読吟味を行うこととした。1797年(寛政9)林家の家塾を切り離して幕府の正規の学問所となる。1800年「聖堂御改正教育仕方」を定め,仰高門日講(ぎょうこうもんにっこう)のほかに御座敷講釈を施行。書生寮も設置。鹿児島藩の赤崎海門(かいもん)や広島藩の頼春水らの臨時手伝いもあった。55年(安政2)学制改革があり,刑政学・外国事取調が加わる。多くの編纂事業が行われ,教科書も刊行した。維新後は新政府に接収され,70年(明治3)廃止。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…寛政改革の一つとして行われた江戸幕府の教学振興策。1790年(寛政2)5月,聖堂預り林大学頭信敬に塾内での教育は朱子学専一にすべき旨を達した。当時,徂徠学派,仁斎学派,折衷学派の流行に対して幕府の林家塾は不振の状態であり,朱子学擁護論が安永(1772‐81)ごろから出始め,松平定信の老中就任によって実現した。頼春水,尾藤二洲,柴野栗山,古賀精里,西山拙斎らの主張,とくに西山拙斎の定信への建白が強かったという。…
…29年民部卿法印に叙せられ,30年には上野忍岡(しのぶがおか)に学寮,先聖殿を建設し釈奠(せきてん)を行った。これは後の昌平黌(しようへいこう)(昌平坂学問所)の基になるものである。35年に武家諸法度,諸士法度を起草,36年に伊勢神宮参拝典礼,朝鮮国への国書起草,43年に《寛永諸家系図伝》,44年(正保1)に《本朝編年録》を編集した。…
※「昌平坂学問所」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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