儒教における学問・教学の意で、儒教の語に比べると狭義であるが、実際には儒教と同義に用いることが多い。もともと儒教は、庶民に対する教えというよりも、士大夫(したいふ)が「己(おのれ)を修めて人を治める」ための学問とされていたことから、むしろ儒学と称することがふさわしかったのである。したがって広義でいえば、「先王の道を奉じてその言行を伝える五経を学習し、孔子(こうし)(孔丘)を祖と仰いでそのことばを重んじ、五常(仁義礼智信)の徳を養い、五倫の道(父子の親、君臣の義、長幼の序、夫婦の別、朋友(ほうゆう)の信)を守るべきことを主たる内容とする学」の意となり、これを儒教と置き換えても通ずるものとなる。しかしこれを狭義に解すれば、紀元前100年ごろ(前漢(ぜんかん))に始まる五経の注釈学(経学)と、1000年(宋(そう)代)以後に発達した新儒教(朱子学、陽明学)における哲学的思弁とがこれにあたる。すなわち経学とは、難解な五経の本文に対する高度に専門的な研究であり、新儒教は、四書を中心として儒教倫理を体系的に把握する試みである。
[楠山春樹]
日本の儒学史は中国儒学の影響により、(1)古代国家の時代、(2)封建制度の時代、(3)明治以降、の3期に大きく時代区分される。
[石田一良]
『日本書紀』は仁徳(にんとく)天皇の代に百済(くだら)から博士王仁(わに)が『論語』をもって渡来したと伝えている。継体(けいたい)天皇以後、百済から五経(ごきょう)博士が交代で派遣されているから、五経(『易経』『詩経』『書経』『礼記(らいき)』『春秋』)が日本の朝廷でも講ぜられたであろう。聖徳太子ころの貴族への儒学的教養の普及は、冠位十二階の名称や十七条憲法の条文によって察することができる。
大化改新後は大宝(たいほう)・養老令(ようろうりょう)によって中央の大学に明経道(みょうぎょうどう)(儒学専攻学部)が設けられ、唐代の注疏(ちゅうそ)に拠(よ)り『周易』『尚書』『周礼(しゅらい)』『儀礼(ぎらい)』『毛詩(もうし)』『左伝(さでん)』と『論語』『孝経』が日本人の博士によって講ぜられた。奈良時代や平安初期の詔勅や国史の序文には儒教の政治道徳が強く現れている。しかし、平安末期から鎌倉時代には博士は清原(きよはら)・菅原(すがわら)2家の世襲となり、明経の学は家学となって矮小(わいしょう)化されていった。
[石田一良]
鎌倉時代の末に『大学』『中庸』『論語』『孟子(もうし)』の四書を中心とする朱子学に造詣(ぞうけい)のある中国の禅僧が次々に渡来して、関東武家の道徳的要求にこたえた。一方、京都では玄恵法印(げんえほういん)が花園(はなぞの)・後醍醐(ごだいご)天皇の宮廷で朱子学を説いた。室町時代に入ると、夢窓(むそう)(疎石(そせき))や義堂(ぎどう)(周信(しゅうしん))は禅僧が儒学にふけることを禁じたが、俗人には奨励し、義堂は足利(あしかが)将軍義満(よしみつ)に四書を講じた。岐陽(きよう)(方秀(ほうしゅう))は禅と儒の不二を唱えて禅の枠内に朱子学を受容して陽明(ようめい)学風の儒説を禅寺のなかで講じている。岐陽門の桂庵(けいあん)(玄樹(げんじゅ))は薩摩(さつま)の島津氏に仕えて薩南学派を開き、南村梅軒(ばいけん)は土佐で南学を開いて長宗我部(ちょうそがべ)氏に影響を与えた。こうした禅儒(ぜんじゅ)は領国内に政治的・社会的新秩序の樹立を図る戦国大名に歓迎せられた。一方、朝廷でも、時流に応じて摂政(せっしょう)一条兼良(いちじょうかねら)や博士清原宣賢(きよはらののぶかた)は古注に新注を加えた儒説を説いている。
五山の儒学に中国の林兆恩(りんちょうおん)の儒説を加えた禅僧藤原惺窩(せいか)は、還俗(げんぞく)して専門の儒学者となった。林羅山(らざん)はこの惺窩につき、清原の学にも触れたが、中年以降は純粋の朱子学者になって、大名の注文に応じて朱子の高弟陳北渓(ちんほくけい)の性理字義の諺解(げんかい)をつくっている。羅山は徳川幕府に仕えて学校(後の昌平黌(しょうへいこう))を建て(初め忍ヶ岡(しのぶがおか)、のちに湯島に移す)、孫の鳳岡(ほうこう)以後は歴代大学頭(だいがくのかみ)に任じて儒学教育を担当した。朱子学派には松永尺五(せきご)、山崎闇斎(あんさい)、貝原益軒(えきけん)、室鳩巣(むろきゅうそう)、新井白石(はくせき)や寛政(かんせい)の三博士などが出た。
この朱子学派に抗して、古代儒学(周孔(しゅうこう)ないしは孔孟(こうもう)の学)の復興を企てて、寛文(かんぶん)(1661~73)のころ山鹿素行(やまがそこう)が聖学を、元禄(げんろく)(1688~1704)のころ伊藤仁斎(じんさい)が古義学を唱えた。享保(きょうほう)(1716~36)のころに荻生徂徠(おぎゅうそらい)は孔孟以前の儒学を唱えて古文辞学(こぶんじがく)をおこした。これら古学派は一時は朱子学派を圧倒したが、寛政(1789~1801)のころ老中松平定信(さだのぶ)が昌平黌においては朱子学を正学とし、その他の異学を講ずることを禁じて以来、しだいに衰えていった。
朱子学に対峙(たいじ)する陽明学は、幕初に中江藤樹(とうじゅ)、熊沢蕃山(ばんざん)、その後は断続的に学者を出したが、安定した封建制度のもとでは、政治の欠陥を攻撃する学風は、とかく当局に忌み嫌われて振るわなかった。一方、江戸時代の中末期に、時代の風潮、中国の儒風の実証的傾向を受けて、折衷学、考証学が流行し、細井平洲(へいしゅう)、亀田鵬斎(ほうさい)や太田錦城(きんじょう)、松崎慊堂(こうどう)が出た。
諸藩も学校を設け、全国で250余校を数えた。水戸の弘道館(こうどうかん)、名古屋の明倫堂(めいりんどう)などが名高い。民間に開かれた私塾には尺五の講習堂、仁斎の古義堂、徂徠の蘐園塾(けんえんじゅく)、広瀬淡窓(たんそう)の咸宜園(かんぎえん)などがあり、町人には大坂に懐徳堂、京都に心学明倫社などが開かれ、儒学は広く封建道徳の涵養(かんよう)、国民教養の向上に役だったのである。
[石田一良]
明治時代に入って儒学は文明開化、旧物破壊運動によって衰退したが、10年代に元田永孚(もとだながざね)らが復活に努め、20年代には国粋保存の運動によって東京大学などで東洋哲学として、西洋哲学研究の方法によって(学問として学問的に)講究されることになった。一方、復活した儒教道徳は、第二次世界大戦の終わりまで、小・中学校の修身教育に取り入れられて、家族国家のイデオロギーとしての役割を果たしていったのである。
[石田一良]
『芳賀幸四郎著『中世禅林の学問および文学に関する研究』(1981・思文閣)』▽『大江文城著『本邦儒学史論攷』(1944・全国書房)』▽『笠井治助著『近世藩校の総合的研究』(1960・吉川弘文館)』
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孔子を開祖とし孟子や荀子(じゅんし)によって形成された,儒家とよばれる思想流派の思想を,教説とその典拠とされる古典の研究を重視する立場からみたよび方。教えとして信奉実践する立場からは儒教という。中国では,前漢の武帝のときに儒学が国教とされて以来,老荘・陰陽五行説・仏教などの諸思想を摂取しつつ儒教古典の新しい解釈をうみだし,さまざまな儒学説を形成するとともに,清末まで2000年余にわたって中国の王朝支配の体制教学として君臨した。儒教は紀元前後以来,朝鮮半島を通じて日本に伝来し,日本の伝統文化の形成と活性化に大きな役割をはたしたが,学問としての儒学が体系的に摂取されたのは江戸時代である。戦国末~近世初期に明末の朱子学文献が大量に流入し,藤原惺窩(せいか)や林羅山(らざん)・山崎闇斎(あんさい)らが仏教から儒学に転換したのをはじめ,近世社会の特質によって修正をうけつつ,朱子学派・陽明学派・古学派・折衷(せっちゆう)学派などさまざまな儒学説をうんだ。政治体制とのかかわりが弱かった分,民間の儒者による儒学説の多様な展開を現出し,幕末~近代初期には,その普遍的側面が西洋の近代思想を受容する思想的媒介ともなった。
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…知行体系の上で〈主の主は主〉という関係が生ずるとともに,直接武家法度によって陪臣たちも幕府の法令に従うことを要請されている。 このような変化のなかでは,武士の教養の基礎となる儒学の学習においても,君臣関係の理解について変化が必要であろう。臨済宗僧侶としての経歴をもつ以心崇伝や林羅山が幕府に用いられたときは,文章練達の士として諸文書・法度類の起草のために用いられたのであろう。…
…なお,儒教は過去の朝鮮,ベトナム,日本の文化形成に深刻な影響を与え,とくに朱子学はこれらの地域の諸政権とむすんで長期に正統教学の位置を占めた。通常,儒教の学術面を〈儒学〉と称し,教学的性格をその開祖の名をとって孔子教Confucianismともよばれる。 儒教の基本的教義は,五倫五常,修己治人,天人合一,世俗的合理主義である。…
…老荘は無為自然を理想とするが,政治的には自由放任の立場となって現れる。しかし漢も武帝の世になると,王朝の基礎も固まり,積極政策の必要も生じてきたので,ここに老荘から儒家への転換が行われ,儒学が王朝公認の官学に定められた。以後,歴代の王朝はこれに倣い,2000年にわたって儒教の支配が続くことになった。…
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[漢代]
秦の天下統一がわずか15年で終わったあと,前漢・後漢にわたる400年間の大帝国が現れた。前漢の初期には,秦の弾圧政策の反動として,自由放任の政治を説く道家思想が流行したが,やがて武帝の代になって儒学が官学として採用され,以後2000年にわたる儒教支配の基礎を固めることになった。漢代儒学の特色の一つは,陰陽五行説を取り入れたことにある。…
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[官僚の選抜]
官僚の選任については,中央に国子監があって官僚養成機関とされたが,これが実質的機能を果たしたのは初期だけであって,やはり科挙に合格した進士が,高級官僚としては圧倒的な地位を占めた。科挙について前代と変わった点は,郷試の受験資格として府州県に置かれた儒学の生員たることが求められ,したがって事実上儒学の入学試験が科挙の第1段階となったことと,地方試験たる郷試の合格者に与えられる挙人が固定した資格となり,進士に合格するのを待たず,挙人の資格で官界に入る者が出てきたことである。官庁事務を実際に扱うのは,多数の胥吏(しより)であって,彼らは中央から任命される官僚とは,截然たる身分上の差があるが,下級の官僚にはその中から選抜された者が多かった。…
…家禄も1500石(述斎のときは3500石に増)に至り,儒官としては抜群の家格で,幕府崩壊まで続いた。また89年(元禄2)の湯島聖堂改築より祭酒,聖堂預りとなり,教育は八代洲河岸(やよすがし)と湯島で行われ,寛政年間(1789‐1801)の学制改革で昌平坂学問所として幕府の学校整備が行われた後も一貫してその任に当たり,儒学界に占めた地位は大きかった。その間,歴代当主に学力の差,早世,時勢の変化があって盛衰があり,他学派の隆盛に押されることもあって,幕政参与は鵞峯以後漸次少となり,鳳岡,述斎を除いてはほとんど無力であった。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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