江戸幕府の洋学研究教育機関。開国前後の対外問題を背景に、幕府は洋学研究・教育や洋書翻訳を任務とする蕃書調所(ばんしょしらべしょ)を設け、1856年(安政3)開業させた。同所は発展に応じて、1862年(文久2)洋書調所、1863年開成所と改称した。ここには蘭(らん)・英・仏・独4か国語、化学、器械学、物産学、数学、画学、活字の各科が設けられ、幕臣・陪臣の教授方と生徒により研究・教育が行われた。また西周(にしあまね)、加藤弘之(ひろゆき)らの人文・社会科学研究、柳河春三(やながわしゅんさん)らの会訳社結成、『西洋雑誌』発刊など、教授方有志の活動にもみるべきものが多い。慶応(けいおう)年間(1865~1868)開成所は新設の軍事組織と強い結び付きをもち、士官教育の一部を担当したり、軍事技術改革に協力した。またこの時期には学制改革や長崎精得館付属だった分析究理所の併合などにより、研究・教育面のいっそうの整備・拡充が進行した。維新後1868年(慶応4)6月、同所は明治政府に移管され、同9月再開された。その後、大学南校、東京開成学校となり、1877年(明治10)東京医学校と合併されて東京大学となった。
[宮崎ふみ子]
『大久保利謙著『日本の大学』(1943・創元社)』▽『沼田次郎著『幕末洋学史』(1950・刀江書院)』▽『沼田次郎著『洋学伝来の歴史』(1960・至文堂)』
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江戸幕府の洋学研究教育機関。1863年(文久3)8月「易経」の「開物成務(かいぶつせいむ)」という一句にもとづき洋書調所を改称して成立。慶応の改革の一環として,英語・フランス語・数学を中心に,教授方増員や職務割当ての合理化を推進。研究教育部門の充実がはかられ,67年(慶応3)までに幕府直轄学校のうち最大規模になった。68年(明治元)6月新政府に移管され,9月開成学校として再開された。
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…1868年(明治1)1月から69年12月までの初期開成学校と,73年4月から74年5月までの後期開成学校に分かれる。前者は幕府設立の開成所(蕃書調所の後身)を明治政府が引きつぎ,洋学教育,翻訳・出版認可等の役割を課した。のち大学や他の学校制度の変遷とともに大学南校,南校,第一大学区第一番中学と改称され,学制(1872)体制のもとでふたたび開成学校となった。…
…現在の東京大学法・理・文学部の源流。1869年(明治2)6月,明治政府は旧江戸幕府直轄の高等教育機関昌平学校(昌平坂学問所)を大学とし,これに開成学校(開成所),医学校(医学所)の2校を分局として統合,同年12月開成学校を大学南校と改称した。これは本郷湯島にあった大学本校の南にあたる神田一ッ橋に位置していたためである。…
…したがって初期には語学教育が中心で,主として句読教授がこれを担当し,教授は翻訳に従事した。しかし60年(万延1)以降,精煉学(化学),物産学,数学などの専門学科が次々と新設されると,これにともない調所の規模も拡大され,校舎も新設され,名称も洋書調所と改められ,ついで63年には開成所と改称された。そして翌年には開成所規則が制定され,オランダ語,英語,フランス語,ドイツ語,ロシア語の5ヵ国語のほか,天文学,地理学,窮理学,数学,物産学,化学,器械学,画学,活字術の9学科が定められた。…
※「開成所」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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