大根布村(読み)おおねぶむら

日本歴史地名大系 「大根布村」の解説

大根布村
おおねぶむら

[現在地名]内灘町大根布・大根布一―八丁目・大学だいがく一―二丁目・大清台たいせいだい

河北潟南部、同潟と日本海に挟まれ、砂丘を背に潟に面して細長く集落を形成する。南は本根布もとねぶ村、北は宮坂みやさか村。天正一一年(一五八三)四月日の羽柴秀吉禁制(小浜神社文書)に「賀州石川郡」として「大ねふ」とみえる。また慶長六年(一六〇一)一二月、前田利長が石川・河北両郡一六ヵ村の浜方地子を免除したなかに、単に「ねぶ村」とみえる(加賀藩史料)。無高所で、寛文一〇年(一六七〇)の村御印(内灘町歴史民俗資料館蔵)では小物成として地子銀一二五匁、外海船櫂役四三四匁五分(ほか九三三匁五分退転)・外海引網役一九五匁(うち七五匁出来)・湖網役二四二匁一分(うち四二匁一分出来)・猟船櫂役一九五匁(うち一〇五匁出来)・鯉鮒役三匁五分(出来)・六歩口銭三匁六分(出来)

寛文七年の三ヵ国浦方三〇〇石積以上の船数覚(「御分国船持中定書等諸留」中山文書)によれば、久兵衛が一千四〇〇石積(二四人乗)、四兵衛が一千二〇〇石積(二〇人乗)の船を所有している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報