小浜神社(読み)おばまじんじや

日本歴史地名大系 「小浜神社」の解説

小浜神社
おばまじんじや

[現在地名]内灘町大根布

河北潟西岸の砂丘地に鎮座し、「延喜式」神名帳の加賀郡一三座のうち同名社に比定される。旧県社。地元では「こはま」とも訓ずる。社号は延宝年中社寺来歴に黒津舟くろつぶね明神・黒津舟小浜神社・黒津舟小浜神社大明神とあるが、天正一四年(一五八六)九月一日の前田利家黒印状(社蔵文書)には黒津舟権現とみえ、以後加賀藩の文書にもこの社号が頻出する。祭神大己貴神(大国主命・大黒天)を主神とし、事代主神(夷神)少彦名神を相殿に祀る。民間では夷・大黒の福神信仰と、大国主・少彦名の穀物豊穣信仰で知られる。天保三年(一八三二)の小浜神社由緒(社蔵文書)によれば、古くは北方の「小浜之磯崎」に鎮座して「日隅宮」と称し、日角ひすみ(現七塚町外日角)が社地であったとされるが、黒津舟の名が渤海使の着岸地にちなむとする説とともに伝承の域を出ない。同由緒は養老二年(七一八)六月の再興とするが、貞享二年寺社由緒書上では養老二年の勧請とし、神社由来書上もこれを踏襲している。

社地は現在地の北方二キロ、宮坂みやさかの砂丘地にある標高五三メートルの小丘権現森ごんげんもりにあり、近世には門前黒津船地内くろつぶねじないとよんだ。前掲天保三年由緒によれば、仁寿元年(八五一)神階を正六位上に叙されたのをはじめ、永徳元年(一三八一)には正三位に昇叙されたという。また安元二年(一一七六)七月加賀の目代藤原師経の非法に抗議して国衙を襲撃した白山宮衆徒に当社別当神連寺が味方した。平安中期から富樫氏の崇敬厚く、寛治三年(一〇八九)当社の夢告を得た加賀介富樫家近が河北潟の悪竜を退治し、元暦二年(一一八五)富樫泰家が社領を寄進。長享二年(一四八八)の一向一揆のさい守護富樫政親に神主斎藤政守が参陣して戦死、社僧二坊(苔厳院・千手院)も廃絶したと伝える。天正八年閏三月には、一向一揆攻略のため加賀に侵攻した柴田勝家・佐久間盛政勢に神主政光が味方し、神人の魚取部を率いて河北潟対岸の木越光徳きごしこうとく寺を攻め、首三級を得たという。

天正一一年四月、羽柴秀吉大根布おおねぶ・宮坂・本根布もとねぶ荒屋あらや禁制を下し、当社に保護を加えた(「羽柴秀吉禁制」社蔵文書)。同一二年の末森合戦に辛勝した前田利家が金沢への帰途、当社で神主政光から粮食の調進をうけたと伝え(神社由来書上)、以後当社は前田家の積極的な外護をうける。同一四年一月二二日、利家は当社再興のため粟崎あわがさき(現金沢市)のうち二町を寄進し、同時に河北潟縁辺の村々に社殿再興の協力を命じている(「前田利家印判状写」黒津舟神社文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

デジタル大辞泉プラス 「小浜神社」の解説

小浜神社

石川県河北郡内灘町にある神社。“小浜”は「おばま」と読む。祭神は大己貴神(おおあなむちのかみ)、事代主神(ことしろぬしのかみ)、少彦名神(すくなびこなのかみ)。

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