日本歴史地名大系 「内町」の解説
内町
うちなだまち
- 石川県:河北郡
- 内町
郡の南西部、日本海と河北潟の間に位置し、北は
砂丘は新旧二層からなり、その間の黒色腐植土層から縄文時代中期から古墳時代初期の遺物が出土する。その時期には海岸線は現在よりも沖合にあって砂丘は安定していたと考えられ、古墳時代初期から新砂丘が形成された。「源平盛衰記」は寿永二年(一一八三)に平家の一部が河北潟西岸の当地付近を通って能登へ向かったとする。中世には
明治二二年(一八八九)の町村制施行により、同一七年以来官選戸長制のもとで向粟崎村戸長役場に属していた六ヵ村がそのまま内灘村となる。昭和三七年(一九六二)町制施行。明治二〇年代から県外出稼漁が盛んとなり、とくに北海道でのニシン漁・イカ釣・帆立貝漁、東北・西日本への鰯刺網漁などに出漁する者が多く、昭和初期には村の生産額の四分の三は出稼漁で占められ、全戸数に対する漁業戸数も八割を超えていた。大正一四年(一九二五)に
内町
うちまち
京橋は長さ九間半・幅二間半(「米子城御普請記」米子倉吉松崎八橋御定)。この橋を境に米子湊と加茂川が分けられる。「御船手御法度」によれば、宝永四年(一七〇七)には通行切手を持つ女性の出入りは昼夜とも京橋からと定められている。また慶応二年(一八六六)の米子港上荷中背賃銭定控(「御用日記」鹿島家文書)では、入港後艀に積みかえて加茂川を遡上させる商荷の船賃は京橋を起点に定められていた。
内町
うちまち
出石城三の丸にあたる。城の
内町
うちまち
和歌山城下の中心をなす町人町の地域呼称。和歌山城の北側、
町は本町通の両側と、
内町
うちまち
内町
うちまち
内町
うちまち
佐伯城下の中央東部に位置し、東境は
内町
うちまち
内町
うちまち
高松城外曲輪の南と西の上級武家屋敷地。内町の名称は本来町名ではなく、高松城の東・西・南を取囲む外曲輪の中に造成された屋敷地の通称であったとみられる。築城当初から計画されていたものかは不明だが、東は御用町人などの居住区で、内町五町(工町・本町・内磨屋町・魚屋町・鶴屋町)といわれた。明治になって五町以外の武家屋敷地を正式に内町とした。
生駒氏時代屋敷割図には武家屋敷数は「百八軒曲輪内」とあり、中堀に面した西端に、
内町
うちまち
内町
うちまち
内町
うちまち
内町
うちまち
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報