内町(読み)うちなだまち

日本歴史地名大系 「内町」の解説


うちなだまち

面積:二〇・三八平方キロ

郡の南西部、日本海と河北潟の間に位置し、北は町、東と南は東の一部が津幡つばた町に接するほかは金沢市。南北九キロ、東西二・九キロ、町域の約八割は内灘砂丘によって占められ、山や川はない。砂丘の最高地点はむろ付近で六一・三メートルで、海岸側では緩傾斜をなすが、内陸部においては急傾斜をなす。古くから集落は砂丘と河北潟の間の潟縁辺の低地に立地していたが、近年南部地区で砂丘上に団地が開発され、海際まで家が建ち始めている。

砂丘は新旧二層からなり、その間の黒色腐植土層から縄文時代中期から古墳時代初期の遺物が出土する。その時期には海岸線は現在よりも沖合にあって砂丘は安定していたと考えられ、古墳時代初期から新砂丘が形成された。「源平盛衰記」は寿永二年(一一八三)に平家の一部が河北潟西岸の当地付近を通って能登へ向かったとする。中世には向粟崎むかいあわがさき倉月くらつき(現金沢市)本根布もとねぶから室にかけての地域は井家いのいえ庄に属していたようである。近世を通し加賀藩領。近世前期、当町域の六ヵ村はいずれも田畑を所持せず、村高はなかった。砂丘の飛砂を防ぐため植林が行われたが、集落の移転に追込まれた例も多く、正徳四年(一七一四)に本根布村、寛政五年(一七九三)大根布おおねぶ村が移転しており、宮坂みやさか村も移転の伝承がある。小浜おばま神社も天保三年(一八三二)から明治中期まで石川郡五郎島ごろじま(現金沢市)に移転している。海運に従事する者もいたが、生業の中心は外海の地引網漁と河北潟漁で、頭にのせた桶に魚を入れて売歩く女性たちはイタダキとよばれ、この地域の風俗としてよく知られていた。

明治二二年(一八八九)の町村制施行により、同一七年以来官選戸長制のもとで向粟崎村戸長役場に属していた六ヵ村がそのまま内灘村となる。昭和三七年(一九六二)町制施行。明治二〇年代から県外出稼漁が盛んとなり、とくに北海道でのニシン漁・イカ釣・帆立貝漁、東北・西日本への鰯刺網漁などに出漁する者が多く、昭和初期には村の生産額の四分の三は出稼漁で占められ、全戸数に対する漁業戸数も八割を超えていた。大正一四年(一九二五)七ッ屋ななつや新須崎しんすざき(現金沢市)間で浅野川あさのがわ電気鉄道(現北陸鉄道浅野川線、通称浅電)が営業を開始するとともに向粟崎に粟ヶ崎遊園が開設され、「北陸の宝塚」といわれて賑わった。浅電は大正一五年に七ッ屋から金沢駅前まで延長され、さらに昭和四年に新須崎から大野おおの川を越え粟崎海岸まで延長された。


内町
うちまち

[現在地名]米子市内町

なだ町の南、外堀を兼ねる加茂かも川河口部南岸にある。灘町との間にきよう橋が架かり、南へ入る道筋の突当りは馬場ばば町。武家地内にあるが、海運を主体に米子城主の用達を勤める町人の居住地であった。町名は外堀内にあることにちなむ。享保五年(一七二〇)の湊山金城米子新府(県立博物館蔵)には京橋の西方川沿いの道筋に「瀬崎」と記される。総間数一三九間余、京橋より後藤家裏門までは四九間、それより小波戸鼻こはとばなまでは六二間(明治二年「町々間数等書上」米子市史)。元禄八年(一六九五)の米子町中竈之覚(同書)では家持五六軒・借家七四軒。文化元年(一八〇四)の下札に基づく生高二五石余、物成一五石余(同書)。町禄は刻煙草の製造が許可されていた(米子市史)

京橋は長さ九間半・幅二間半(「米子城御普請記」米子倉吉松崎八橋御定)。この橋を境に米子湊と加茂川が分けられる。「御船手御法度」によれば、宝永四年(一七〇七)には通行切手を持つ女性の出入りは昼夜とも京橋からと定められている。また慶応二年(一八六六)の米子港上荷中背賃銭定控(「御用日記」鹿島家文書)では、入港後艀に積みかえて加茂川を遡上させる商荷の船賃は京橋を起点に定められていた。


内町
うちまち

[現在地名]出石町内町

出石城三の丸にあたる。城の西にしの曲輪・しもの曲輪・山里やまさと曲輪の外側(北側)を占め、北および東を内堀、西は内堀やはす池で画される。上級家臣の屋敷や作事所ほかの藩役所が立並ぶ武家町で、町の中央を城の埋門(平成六年に復元)と北の大手門を結ぶ長さ三八間半の南北路が通っていた。この大手おおて通と直交して城の東門と西門を結ぶ長さ一六三間の東西路を内町通とよんだ。元禄一五年(一七〇二)出石藩主松平忠周はそれまで本丸にあった居館を大手通の東側、内町通の北側を占める一画に移し、以後歴代藩主はここを居所とした。対面所とよばれ、東西八二間、南北は西側三八間・東側一四間、総坪数は二千五一坪に及んだ。石城せきじよう・石城御殿ともいい、内部の様子は文化年間(一八〇四―一八)の石城御殿図(小出家蔵)に詳しい。なお平成三年(一九九一)に出石町役場新庁舎建設・出石小学校移転に伴う発掘調査が行われ、前掲御殿図のとおりではなかったが、ほぼそれに近い建物配置が確認された。


内町
うちまち

和歌山城下の中心をなす町人町の地域呼称。和歌山城の北側、きよう橋より北に延びる本町ほんまち(大手筋)の両側を占める。町名は城下惣構の大手門である本町御門の内側の町の意で(続風土記)あるが、この範囲のうち武家屋敷地は、別に宇治うじと称される。

町は本町通の両側と、鷺森さぎのもり別院の門前町からなるが、浅野氏の城下町建設に伴って区画された本町通両側の町町が、計画町らしく整然としているのにくらべ、鷺森別院周辺部の町はそれ以前よりの町並であるため計画性が薄い。現在この地域にはほん町一―九丁目・駿河するが町・ふく町・卜半ぼくはん町・寄合よりあい町・よろず町・西にしたな板屋いたや町・はし丁・南大工みなみだいく町・北大工町・西大工町・東鍛冶屋ひがしかじや町・西鍛冶屋町・舟大工ふなだいく町・六軒ろつけん丁・元博労もとばくろう町・九家くけノ丁・きた町・さぎ森片もりかた町・同新道しんみち・同堂前どうまえ丁・同なかノ丁・同西にしノ丁・同二十五本松にじゆうごほんまつ・同ひがしノ丁・同南ノ丁・同明神みようじん丁・専光寺門前せんこうじもんぜん丁・曲尺さしがね丁・鷺ノ森・畳屋たたみや町・新魚しんぎよ町・米屋こめや町・たくみ町・南桶屋みなみおけや町・北桶屋町・雑賀さいか町・なか店中たななかノ丁・同南ノ丁・同北ノ丁・住吉すみよし町・東旅籠ひがしはたご町・西旅籠町・鍋屋なべや町があり、近世の町名とほぼ一致する。


内町
うちまち

[現在地名]酒田市上本町かみほんちよう本町ほんちよう一丁目・一番町いちばんちよう二番町にばんちよう

かた町の西側に並行して南北に延びる両側町で、南は新井田にいだ川。北半を下内町、南半を上内町という。内町組に属する。町名は亀ヶ崎城外郭内にあることに由来する。慶長三年(一五九八)上杉景勝は城将志駄修理に命じ、新井田川以西の地を郭内に入れて土塁や堀を築き、当地一帯を三の丸として奉行・与力などの侍屋敷とした。同五年の出羽合戦では戦場になっている(「山口孫右衛門高名覚書」飽海郡誌)。酒井氏の入部後町奉行所を残して侍屋敷は本丸・二の丸内に移され、町人町として割直した。町分の耕地があり、元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録に内町六石余が載る。明暦二年(一六五六)の酒田町絵図(大泉叢誌)に町名がみえ、町の長さ一六九間余・幅五間、屋敷七二軒。天和三年(一六八三)の酒田町割家数人数書上(鶏肋編)によると町域は三町半、同横小路半町、家数八四・人数六一二。


内町
うちまち

[現在地名]角館町表町上丁おもてまちかみちよう表町下丁おもてまちしもちよううら町・川原かわら町・山根やまね町・東勝楽丁ひがしかつらくちよう歩行おかち町・小人こびと

南北に長い角館城下は、町の北と南を区分する幅二一メートルの火除け地帯があり、中央に土手が築かれていた。その北が内町と称する侍屋敷町である。元禄一七年(一七〇四)の角館町町割図(角館町立図書館蔵)に侍屋敷・町人・寺院・足軽などの区分が記される。

享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」に武家居住地を角館として表町・裏町・御歩行おかち町・勝楽町・御小人おこびと町・谷地やち町・山根町・河原かわら町・菅原田町(菅沢丁)・下田町・下田新町の一一町をあげ、竹原たけはら町を足軽の居住地とする。


内町
うちまち

[現在地名]佐伯市内町

佐伯城下の中央東部に位置し、東境は番匠ばんじよう川支流なか川、南は船頭せんどう町とを区切る内町川。五ヵ町からなる町人町で、船頭町と併せてりよう町と称した。もとは塩屋しおや村内の低湿地帯であったが、城下町建設のため埋立てられたといい、現在も地下から多くの貝殻が出土する。佐伯に入部した毛利高政は慶長九年(一六〇四)から佐伯城築造に着手、ほぼ並行して城下町の建設にも着手したとされる。まず戦国期佐伯氏の拠った栂牟礼とがむれ城下の市(町場)を移し、古市ふるいち町とした。また諸国商人定住を奨励、このため漸次町場が拡張し、ほん町・中町・中島なかじま町などができ、のちに成立した船頭町に対し内町と称した。しかしこの頃は農家・武士屋敷・町家が混在していた。


内町
うちまち

長崎町のうち早い時期に成立した諸町の総称で、そと町に対する呼称。中島なかしま川河口部の右岸に位置する。元亀二年(一五七一)大村純忠による町割で約八千坪の丘陵部に島原しまばら町・大村おおむら町・平戸ひらど町・横瀬浦よこせうら町・外浦ほかうら町・分知ぶんち町の六ヵ町が成立、これらは天正八年(一五八〇)四月イエズス教会に寄進されて教会領となった。同一三年頃までに博多はかた町・樺島かばしま町・本五島ほんごとう町・した町の四ヵ町が造成された。同一六年豊臣秀吉直轄領となり、地子銀が免除されたことから内町と称された。


内町
うちまち

[現在地名]高松市内町・丸の内まるのうち西の丸町にしのまるちよう西内町にしうちまち寿町ことぶきちよう一―二丁目

高松城外曲輪の南と西の上級武家屋敷地。内町の名称は本来町名ではなく、高松城の東・西・南を取囲む外曲輪の中に造成された屋敷地の通称であったとみられる。築城当初から計画されていたものかは不明だが、東は御用町人などの居住区で、内町五町(工町・本町・内磨屋町・魚屋町・鶴屋町)といわれた。明治になって五町以外の武家屋敷地を正式に内町とした。

生駒氏時代屋敷割図には武家屋敷数は「百八軒曲輪内」とあり、中堀に面した西端に、香東こうとう川治水工事などを手がけた伊勢藤堂家の家臣西島八兵衛の屋敷があった。「小神野夜話」によると、松平頼重入部後、東側では魚の棚うおのたな(魚屋町)の北側で城郭とつながっていた部分を切離して、中堀を海に開け、中堀端からきた浜にかけてあった武家屋敷を取払い町家とした。


内町
うちまち

[現在地名]三次市三次町

近世、三次町あるいは三次三ヵ町と総称された町人街の一つで、三次藩主の居館の南側を東西に通る町。三次藩成立当初は武家の用地とされ家中かちゆう町と称したが、しだいに町人層が定住し町名を沖之原おきのはら町と改めた。延宝五年(一六七七)の大火により全焼した後、元禄三年(一六九〇)ごうの川堤防の内にあるという意でさらに内町と改めたという。

三次町の「国郡志下調書出帳」に載る「享保三戌年下調へ旧記之事」によれば、享保三年(一七一八)内町は東西長さ三丁の町で、家数八九軒・竈数三六一(本家七九・借家二八二)・人数七七二人。


内町
うちまち

寺島てらしまのなかに区画された町人地の総称。寺島地区の中央部を占める。天正一三年(一五八五)阿波に入国した蜂須賀家政により徳島城下が建設された際、町立てされた。貞享二年(一六八五)の市中町数並家数(民政資料)などによれば、東西の通り紙屋かみや町・八百屋やおや町・なか町・紀伊国きのくに町・とおり町・新シあたらし町・西船場片にしせんばかた町・東船場片町と南北の内魚うちうお町・西横にしよこ町からなる。そのほか南北の横町三筋があり、一筋は紙屋町の東一丁目南東の角より内魚町と通町の角までの五四間の片町、二筋目は紙屋町二丁目東角北釘貫より新シ町までの二町、三筋目は紙屋町三丁目東角北釘貫より新シ町までの二町一〇間であった。


内町
うちまち

[現在地名]関宿町内町

もと町の南に位置し、西を江戸川が流れる関宿城下の町人町の一つであるが、村方としても扱われた点はだい町などに同じ。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分に内町とみえ、高六六石余。天保郷帳でも同高で、旧高旧領取調帳では関宿内町とある。天保八年(一八三七)と推定される関宿藩領年貢帳(関宿志)によると年貢は永一七貫四三文余。


内町
うちまち

[現在地名]黒石市内町

黒石陣屋前を東西に通る武家町で、西は大工だいく町、東は大手門に接する。享保(一七一六―三六)頃の黒石府家之図(浅瀬石川郷土誌)には「士家 御門内十八軒」とあり、「新撰陸奥国誌」は明治初年には「長百三十六間幅三間四尺五寸、屋敷三十三軒。皆貫属屋敷」と記す。内町は花山院ゆかりの地で、同書に「当街士屋敷の中に花山院忠長卿の寓所の迹あり。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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