稲荷神社(読み)イナリジンジャ

デジタル大辞泉 「稲荷神社」の意味・読み・例文・類語

いなり‐じんじゃ【稲荷神社】

稲荷を祭った神社。特に、京都市伏見区にある総本社、伏見稲荷大社をいう。

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精選版 日本国語大辞典 「稲荷神社」の意味・読み・例文・類語

いなり‐じんじゃ【稲荷神社】

  1. いなり(稲荷)[ 二 ][ 一 ]

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日本歴史地名大系 「稲荷神社」の解説

稲荷神社
いなりじんじや

[現在地名]鳥取市立川町四丁目

天神川北岸の山裾にある。祭神は保食神・菅原道真。社地は近世の竹島たけしま天神(のち北野神社)の鎮座地で、大正一〇年(一九二一)南方にあった稲荷神社が現在地に移転してきて北野きたの神社を合祀し、本殿など殿社すべてを改築して完成した。立川たちかわ村の産土神であった稲荷大明神は元禄年間(一六八八―一七〇四)以降江戸築地屋敷の産土神稲荷を立川に祀ったもので、池田氏の尊崇を受けたびたび参詣があったという。また神殿造営が行われて、文政年間(一八一八―三〇)には石壁を高く積み社地を拡張したが、その後地崩れがあり山下の屋敷に被害が出たという(鳥府志)。文政一〇年正一位に昇進した(因府年表)。寛政七年(一七九五)の宮地改帳(福田家文書)では社地は三五間・五〇間、舞殿は二間・一間半で草葺、拝殿は一間・一間半で檜皮葺、石の鳥居は高さ一丈・横七尺とある。


稲荷神社
いなりじんじや

[現在地名]都城市郡元町

沖水おきみず川南岸にある。旧村社。祭神は豊受姫神・大宮姫神・猿田彦神。江戸時代末までは倉稲魂命瓊瓊杵尊・伊弉冊尊を祭神とし、俗に島津しまづ稲荷と号し、また島戸稲荷ともよばれた。創建は島津忠久祝吉いわよし御所にいた時の建久八年(一一九七)とされ、忠久誕生のとき擁護があったとして崇敬していた摂津国住吉末社稲荷明神の神体を勧請し、家神としたという(三国名勝図会)。文明一六年(一四八四)飫肥おびへの出陣にあたり、島津国久・忠廉らは願書を当社に納めて軍中の勝利を祈った。


稲荷神社
いなりじんじや

[現在地名]弘前市新寺町

新寺しんてら町寺院街の袋宮たいぐう寺の北にあり、北側を寺沢てらさわ川が東流する。北新寺きたしんてら町はかつて同社の境内地であった。祭神は宇賀魂命・猿田彦神・大宮能売神。旧村社。

津軽一統志」に稲荷大明神とみえ、別当は浄土宗白狐びやつこ(現廃寺)、宝永五年(一七〇八)一〇月二二日四代藩主津軽信政の造営とある。「津軽俗説選」によれば、白狐寺の稲荷神社に狐の形の石が二つあり、子供が軽くなれといって抱上げれば軽く上がり、重くなれといって引上げれば重く上がると記す。「弘藩明治一統誌」によれば、当社の由来は、四代信政が在府の折、武蔵国の仏体の稲荷が霊夢に現れ、信政は病気となった。そのため、宝永五年現在地へ堂社を建て尊像を移し、貞昌ていしよう寺の良仙を別当職に任じ、別当寺として伊吹山白狐寺を建立し、社禄三石六斗を寄付した。


稲荷神社
いなりじんじや

[現在地名]常澄村大串

大串おおくし集落のある台地の縁辺、字山海さんかいの地にある。祭神は倉稲魂命。旧郷社。「水府寺社便覧」によると初めは人見氏の勧請という。天和元年(一六八一)徳川光圀の命で前谷まえや(現荒谷坪)香取神社に寄宮したが、宝永元年(一七〇四)徳川綱条が現在地に移して現社殿を造営した。社領一七石余を有し、水戸徳川家の守護神で、近辺二一ヵ村の総鎮守であった。社殿の修理や祭典はすべて水戸藩主が行い、社殿は水戸城の方向に西向きに建てられたと伝える。

宝永五年から毎年八月一七―一九日の祭礼には水戸七軒しちけん町の仮殿まで出輿し、この出社祭礼は大串村九姓九人党(明治には九姓一五人党)の宮座によって執行され、昭和一一年(一九三六)まで続いた。


稲荷神社
いなりじんじや

[現在地名]田辺市稲成町

近世の伊作田いさいだ村域中央の丘陵上に鎮座。祭神は倉稲魂うかのみたま神・稚産霊わかむすび神・保食うけもち神。旧村社。社伝によると、鎮座は空海熊野社参の弘仁年中(八一〇―八二四)という。「続風土記」は近世の田辺町紺屋こや町の稲荷社を当地に移したと記す。室町時代の社名は、現存する明応九年(一五〇〇)の棟札から「阿羅毘賀大明神」と考えられるが、「続風土記」は阿羅毘賀あらびか大明神を神名とし、荒光あらびかは地名で、その地にいますことによっていうのであろうとしている。元亀年中(一五七〇―七三)に稲荷大明神と改めたといい、前述の移転に関係するかもしれない。同二年の棟札に稲荷大明神の名がみえる。文禄元年(一五九二)朝鮮出兵に先立ち、当社に参詣した杉若伝三郎が家臣黒坂某を通じ、社人に神殿の開扉を命じたが、社人は古くより開扉のことなしとしてこれを拒んだ。


稲荷神社
いなりじんじや

[現在地名]鹿児島市稲荷町

吉野よしの台地から流れ下る稲荷川右岸の山裾に鎮座。祭神は正一位稲魂神・瓊瓊杵尊・伊弉冉尊。旧郷社。鹿児島五社の第三位。もとは現在地から約六〇〇メートルほど東にあったが、火災のため天正期(一五七三―九二)に現在地に移転したという。島津忠久は山門やまと院、島津庄の本拠郡本こおりもと(現宮崎県都城市)および市来いちきに稲荷社を勧請したと伝え、のち島津忠国が市来の稲荷社を鹿児島清水城下に遷したと伝える(「三国名勝図会」など)。なお島津忠久の生母丹後局が摂津住吉神社境内で忠久を産んだとき、稲荷大明神の使いの狐が闇夜を照らしたため無事出産できたという伝承があり、島津氏の稲荷社への崇敬は厚かったという。


稲荷神社
いなりじんじや

[現在地名]宮津市字大久保

大久保おおくぼの東部、京街道きようかいどうとの境近くに鎮座する。大久保稲荷と称する。祭神は稲倉魂命・保食命・武甕槌命・経津主命・大山祇命。旧村社。

慶長四年(一五九九)細川忠興が霊夢を感じ、菅野すがの(現与謝郡伊根町)より当地の北に勧請、その後寛永二年(一六二五)京極高広が現在の地に移したと伝える。


稲荷神社
いなりじんじや

[現在地名]東市来町湯田

湯田石原ゆだいしはらにある。祭神稲倉魂命・猿田彦大神・宮毘姫命。「三国名勝図会」によると、島津忠久の母丹後局がなべヶ城(現市来町)に居住していた時、承久三年(一二二一)に稲荷大明神を勧請したという。往古は保食神を主神として三座を祀っていたが、島津義弘の朝鮮出兵の際、二狐が出現して勝利を得たので、帰国後二狐を合祀し、祭神は五座にされたと伝えられている。社地は一〇町八段、うち湯田村に八町八段、大里おおざと(現市来町)伊作田いざくだ村に各五段、大隅国串良くしら郷に一町があてられていた(三国名勝図会)


稲荷神社
いなりじんじや

[現在地名]木造町中館

上中館かみなかたて村の南西にあり、祭神は倉稲魂命・猿田彦命・大宮姫命、旧村社。元文元年(一七三六)の検地帳では一六歩の稲荷社地に「宮建有之」とみえる。明治初年の「新撰陸奥国誌」によれば次のような相殿がある。天村雲神二座は川泊かわとまり村と桜井さくらい村に祀られていた飛竜権現であったが、明治三年(一八七〇)仏像を弘前最勝さいしよう院に納め、同五年神社を移転。


稲荷神社
いなりじんじや

[現在地名]黒石市甲大工町

甲大工こうだいくしたノ坂の傍らにあり、南方に小阿弥こあみ堰・浅瀬石あせいし川を望み、東側に陣屋跡がある。祭神は倉稲魂神・誉田別命。旧郷社。

当社の由来記によれば、初め黒石村の西端(現元町)にあった黒石稲荷を、慶長一九年(一六一四)から寛永一三年(一六三六)まで津軽に配流されていた花山院忠長が、黒石村南端の蝦夷館えぞだてに移し、正一位稲荷大明神として崇敬したという。天和四年(一六八四)の境松村絵図(浅瀬石川郷土誌)によれば、「狄館」のなかに「稲荷神」がある。


稲荷神社
いなりじんじや

[現在地名]弘前市富田一丁目

富田とみた一丁目、住吉すみよし神社の南にあり、紙漉かみすき町の北に位置。祭神は倉稲魂神・猿田彦命・大宮姫命。開基年代不詳。

現在の住吉神社・護穀ごこく神社・松尾まつお神社と地続きに存在したと思われ、文化三年(一八〇六)の新製弘前分間総図(市立弘前図書館蔵)に描かれるが、元禄一一年(一六九八)弘前惣御絵図(同館蔵)にはみえず、普光ふこう(現廃寺)の境内のみがあり、後年同院の鎮守として勧請されたとも考えられる。


稲荷神社
いなりじんじや

[現在地名]吉川町富岡

北谷きただに川左岸の段丘上にある。旧村社。山崎やまざき地区の氏神で、地元では聖天しようでんさんとよばれる。本尊は大聖歓喜天。本来は聖天堂であるが、明治初年の廃仏毀釈を恐れ、脇に祀られた稲荷神社の名で届出たという(吉川町誌)。天文一五年(一五四六)二月、吉河上よかわかみ庄吉河村の小野安秀夫婦によって聖天社が建立されている(社蔵本殿棟札写)。建造物は本殿(一間社・隅木入春日造・板葺、覆屋に収蔵)・拝殿(瓦葺)のほか、境内社として稲荷神社(祭神稲蒼魂命)がある。


稲荷神社
いなりじんじや

[現在地名]福知山市字内記

旧福知山城郭の西側、西の丸の下の旧稲荷町南端の地に鎮座する神社で祭神は保食神。

城下の氏神はほり一宮いつきゆう神社であったが、上紺屋町かみこやまちにあった御霊ごりよう神社とともに町民の崇敬の厚い神社で、「丹波志」に「古ヨリ城内西ノ丸ニ稲荷ノ社有、然トモ諸民参詣ナリカタシ、明和八年辛卯年城内ノ社ハ其儘置レ、馬防口ノ内山下ニ新ニ社ヲ造立アリシ、諸人ノ望ヲ達セラレ、追年神威増繁栄也」とその由緒を記す。


稲荷神社
いなりじんじや

[現在地名]木造町下福原

吉見よしみ村の東にあり、祭神は倉稲魂命・猿田彦命・大宮姫命、旧村社。元文元年(一七三六)の検地帳に、一三歩の稲荷社地がみえる。「西津軽郡史」によれば、宝暦年間(一七五一―六四)と文政年間(一八一八―三〇)に修理し、天保一三年(一八四二)には伏見稲荷より正一位の神璽を受け、嘉永五年(一八五二)に再建したという。


稲荷神社
いなりじんじや

[現在地名]弘前市和徳町

北東市街地にあり、弘前市から青森市へ向かう国道七号に面する。祭神は宇賀之御魂命・猿田彦太神・大宮能売神。旧郷社。

「津軽一統志」によれば開基は不詳だが、元和年間(一六一五―二四)二代藩主津軽信枚が再興したとある。社司は毛内対島守。「弘藩明治一統誌」には、祭神に宇賀之御魂命の代りに、倉稲魂命がみえ、坂上田村麻呂の蝦夷征伐時に、神託を受けた田村麻呂が再営したとする。その後稲荷山徳恩寺と称したが廃れ、領主の小山内伊賀が再興した。元亀二年(一五七一)伊賀の後裔和徳讃岐が、弘前藩祖大浦為信に討たれた時、家臣の尾関晴四郎が讃岐の首をこの稲荷堂地に埋め大宮能売命として崇敬したという。


稲荷神社
いなりじんじや

[現在地名]猿島町沓掛

沓掛くつかけ東部の諏訪山すわやま坪、西仁連にしにれ川東岸に鎮座。藤岡ふじおか稲荷とも称する。祭神倉稲魂命。旧村社。寛政一一年(一七九九)九月に幕府代官岸本武太夫就美が鎮斎。就美は寛政五年に代官となり、藤岡(現栃木県下都賀郡藤岡町)に陣屋を設け、同六年からは飯沼新田いいぬましんでん三一ヵ村も支配した。


稲荷神社
いなりじんじや

[現在地名]大間町大間 寺道

大間の市街地の中ほどにある。祭神は稲荷大明神で、旧村社。宝暦(一七五一―六四)の頃の御領分社堂に稲荷宮とあり、別当は修験光円坊とされる。享保一五年(一七三〇)の勧請と伝える(新撰陸奥国誌)菅江真澄は「おほまの浦におましまし給ふ百々いなりといふかんやしろ、天妃の祠の辺に建るに、こたび、みくらゐ給りしよしを聞」(牧の朝露)と記している。


稲荷神社
いなりじんじや

[現在地名]富山市稲荷町二丁目

祭神は倉稲魂之大神・豊受大神。旧村社。「越中国式内等旧社記」には「奥田庄稲荷村鎮座、旧伝云、社辺往昔跡也、旧社なり」とある。「越中志徴」が引く文政社号帳に富山城下稲荷町との入会産神とある。社蔵の天正八年(一五八〇)七月日の河田長親制札に「奥田村□□□公用納所之儀」とあり、稲荷社は当時の奥田おくだ村にあったことがわかる。なお元亀四年(一五七三)には富山城に籠った一向一揆勢を討つため、上杉謙信が稲荷などに向城を築いているが(三月五日「上杉謙信書状」上杉家文書)、前掲社号帳に「当社中古為宮番一向宗法教と云坊主附置処、相果、法教代り実相院と云坊主附置」とあるのは元亀末年頃のことであろうか。


稲荷神社
いなりじんじや

[現在地名]静岡市丸子

いずみ丸子まりこ城跡の東側に鎮座する。祭神は食稲魂命。旧郷社。宗教法人名は丸子稲荷神社。社伝によると、承平七年(九三七)山城伏見稲荷神社の神璽を奉斎したのが始まりという。永禄一一年(一五六八)武田信玄が駿河に侵攻して丸子城の改修にあたり、城の東端の豊坂山にあった当社を丸子城の鬼門にあたる現在元宮がある場所に移転、城の守護神として奉斎したという。


稲荷神社
いなりじんじや

[現在地名]浜松市飯田町

龍泉りゆうせん寺の西側に鎮座する旧郷社。祭神は倉稲魂命。「遠江国風土記伝」は「延喜式」神名帳に載る長上郡子倉こくら神社に比定する説を紹介するが根拠は薄い。文禄二年(一五九三)九月一一日の堀尾次郎介社領寄進状(稲荷神社文書)に長上郡かばのうち「上飯田村稲荷」とみえ、神領として上田一反が寄進されている。


稲荷神社
いなりじんじや

[現在地名]臼田町大字臼田 稲荷山

稲荷神社は臼田うすだ村の南端、千曲河畔にそびえる比高約五〇メートルの稲荷山の北側斜面にあり、佐久平を一望に収め、浅間・蓼科たてしな八ヶ岳の諸峰を北・西・南に巡らす景勝地にある。旧郷社。

祭神は稲倉魂命であったが、明治四五年(一九一二)三月、神社合併認可により臼田上諏訪社と勝間かつま村社諏訪社を合祀する。


稲荷神社
いなりじんじや

[現在地名]北浦村内宿

化蘇沼けぞぬまにあり、化蘇沼稲荷とも称する。祭神は倉稲魂命。旧村社。「茨城県神社誌」によれば、文明一〇年(一四七八)九月、領主大掾氏が創祀。天文三年(一五三四)武田たけだ城主武田俊房が社殿を再建し、武田郷九ヵ村の郷社としたとされ、化蘇沼畔にある石祠(奥宮)には天文八年の銘がある。江戸時代は守山藩の保護もあり、境内に明和四年(一七六七)・同八年・享保三年(一八〇三)銘の手洗石・狐像・石灯籠や俳人洞海舎涼石が安政五年(一八五八)に建立した句碑などがある。


稲荷神社
いなりじんじや

[現在地名]五戸町 野月

上大かみおお町の西南に位置する。祭神は倉稲魂命で、旧郷社。宝暦(一七五一―六四)の頃の御領分社堂に稲荷宮とあり、別当は修験大通院で、五戸年行事多門院の配下に属していた。享保一八年(一七三三)京都伏見ふしみ稲荷(現伏見稲荷大社)からの勧請とされ、天明八年(一七八八)正一位の神位を授与されたと伝える(新撰陸奥国誌)


稲荷神社
いなりじんじや

[現在地名]弘前市藤代 川面

藤代ふじしろ集落の中心部にあり、祭神は宇迦御魂命・猿田彦命・大宮能売命。

小野万太夫を社司として、寛文一〇年(一六七〇)四代藩主津軽信政によって創建された(津軽一統志)。津軽家の祈願所としての役割をももっていたと思われる(津軽歴代記類)。貞享四年(一六八七)の検地帳によれば、社地は五畝一二歩、革秀かくしゆう寺と小野万太夫の両抱であり、除地の指定を受けていた。


稲荷神社
いなりじんじや

[現在地名]青森市合浦二丁目

合浦がつぽ公園の入口右手にあり、祭神は倉稲魂命。草創年月は不詳だが、作道つくりみち村の五穀成就祈願のため勧請されたのであろう。この地を俗に稲荷林とよび、側に諏訪林すわばやしもあった(青森市史)。貞享四年(一六八七)の検地帳に一〇間に八間の「宮建無之」稲荷社地が記される。


稲荷神社
いなりじんじや

[現在地名]十和田市稲生町

稲生いなおい町の西に鎮座。祭神は倉稲魂命。旧郷社。「新撰陸奥国誌」に「千歳森稲荷神社」とみえる。社地は安政六年(一八五九)新渡戸伝の上水工事が成功すると、それまで蒼前そうぜん神社を祀っていた現在地に、社領開発高五石を寄進して着工、表口四五間・裏口六〇間の藪地を開き、周囲に土手と堀をめぐらせ、門前の深谷地を埋立てた。


稲荷神社
いなりじんじや

[現在地名]岩井市大口新田

大口新田おおぐちしんでん集落中央の平坦地に鎮座。祭神保食命。旧村社。石鳥居脇に青面金剛の石碑があり、裏面に「維時 嘉永元歳次戊申冬十月、下総猿嶋郡大口新田 南のだ 西ゆハい 道」とある。また大願成就奉納の鳥居が多い。由来によると宝暦四年(一七五四)に大口新田開発人で名主の彦兵衛が創祀。


稲荷神社
いなりじんじや

[現在地名]大洲市新谷

神南かんなん山の北麓に鎮座。祭神は伊弉諾命・伊弉冉命・瓊瓊杵命・田中道別命。旧郷社。

新谷藩内安泰の祈願所として、新谷五代藩主加藤泰官の時、安永元年(一七七二)藩費で本殿・拝殿を建立、以後歴代藩主の崇敬を受けた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

事典 日本の地域遺産 「稲荷神社」の解説

稲荷神社

(愛知県岡崎市羽根西2-8-1)
ふるさとの森」指定の地域遺産。
面積990【m2】

出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域遺産」事典 日本の地域遺産について 情報

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