日本歴史地名大系 「大石田四日町」の解説
大石田四日町
おおいしだよつかまち
寛永一三年(一六三六)山形藩領大石田村から分立した村で、大石田四村のうち北部に位置する。このとき幕府領となり幕末に至る。延宝三年(一六七五)の検地帳(二藤部文書)では田一六町一反余・畑屋敷一二町五反余・新畑一町八反余、高四六〇石余、うち田高三八二石余・畑屋敷高七五石余・新畑高二石余。宝永七年(一七一〇)の御巡見様一件帳(同文書)でもほぼ同高、百姓四八・水呑一二・名子四三、人数五五二、酒屋五、馬一九、舟数三一・道者船九、寺一(時宗石水山西光寺)・観音堂一。宝暦一一年(一七六一)の御巡見様御案内覚帳(同文書)でも高・反別は延宝三年度にほぼ同じ。家数一〇二、うち百姓四六・半百姓四・名子五一・寺一、人数四八四、酒屋五(うち当時休一)、馬四、船数三九、うち五人乗一五、四人乗二二、三人乗一、二人乗一。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報