大石田新町(読み)おおいしだしんまち

日本歴史地名大系 「大石田新町」の解説

大石田新町
おおいしだしんまち

[現在地名]大石田町大石田 新町しんまち川端かわばた東町ひがしまちなど

寛文八年(一六六八)幕府領大石田村から下野宇都宮藩領(東根陣屋支配)として分立した村。大石田四村の南部に位置し、最上川右岸の朧気おぼろけ川との合流点付近を村域とする。南の朧気川対岸は今宿いまじゆく村、西の最上川対岸は横山よこやま村、北は大石田本町・大石田村(新大石田村)。元禄五年(一六九二)陸奥白河藩領(東根陣屋支配)となる。宝永七年(一七一〇)の御巡見様一件帳(二藤部文書)によると高三一二石余、うち枝郷井出いで村分四四石余、百姓二九、馬七、舟数二七・道者船一〇、酒屋九、地蔵堂一(別当長学院、宝永元年堂建立入仏)。享保六年(一七二一)東根領覚書(横尾文書)では本田高三一二石余・新田高三石余、反別田一一町一反余・畑一一町四反、大庄屋は村岡金右衛門、本百姓四三・水呑四七、人数四九九、小物成銭一六〇文。浄土宗乗船じようせん寺・浄土真宗浄願じようがん寺・修験長学ちようがく院がある。寛保二年(一七四二)からは幕府領。宝暦一一年(一七六一)の御巡見様御案内覚帳(二藤部文書)によると田高二五九石余・畑高五六石余、反別田一一町一反余・畑一一町四反余、家数一一四、うち百姓六三・名子四八・寺二・山伏一、人数五二六、うち出家八・山伏二、酒屋七(うち休株三)、馬三、船数四二、うち五人乗一五、四人乗二五、三人乗四、二人乗一。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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