日本歴史地名大系 「大谷田村」の解説 大谷田村おおやたむら 東京都:足立区大谷田村[現在地名]足立区大谷田一―五丁目・中川(なかがわ)一―五丁目・東和(とうわ)四―五丁目・谷中(やなか)二―三丁目・同五丁目など中川右岸、長右衛門(ちようえもん)新田の北に位置し、北は佐野(さの)新田、西は久右衛門(きゆうえもん)新田・蒲原(かばら)村、南西は北三谷(きたさんや)村。元和二年(一六一六)に開発人河合平内の抱名主・百姓により開発された新田の一つ。開発手形(足立区立郷土博物館所蔵文書)には大谷田新田とある。開発は里見氏旧臣と伝える金子氏を中心に行われたという。村組(ズシ)として上・中・下がある。田園簿に大谷田村とみえ、田七四九石余・畑一一一石余、ほかに野銭永四二二文。 大谷田村おおやだむら 栃木県:下都賀郡藤岡町大谷田村[現在地名]藤岡町都賀(つが)渡良瀬川左岸の台地上にあり、東部は大谷田谷津とよばれる沼沢地。南は沼尻(ぬまじり)村、西は佐野川を隔て安蘇(あそ)郡西浦(にしうら)村(現佐野市)、北は中居(なかい)村。慶安郷帳に村名がみえ、田三石余・畑六石余、下総古河藩領。ほか古河永井(えいせい)寺(現茨城県古河市)領五〇石があった。改革組合村では幕府領と永井寺領。天保年間(一八三〇―四四)の家数二二(改革組合村)。大谷田河岸があり、明治二年(一八六九)の河岸取調帳(伊沢新右衛門文書)によれば、積問屋は重四郎が務め、五〇〇俵積から三〇〇俵積までの船三。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報