日本大百科全書(ニッポニカ) 「百姓」の意味・わかりやすい解説
百姓
ひゃくしょう
古代では「ひゃくせい」ともいい、貴族や官僚、下層の部民(べみん)や奴婢(ぬひ)を除く姓氏を有するあらゆる公民(こうみん)(国家の民、「おおみたから」ともいう)を意味した。下総(しもうさ)国葛飾(かつしか)郡大嶋郷(おおしまごう)(東京都江戸川区・葛飾区の一部)の戸籍に、孔王部小山(あなおべのおやま)、孔王部忍秦(おしはた)、刑部止手(おさかべのして)、壬生部嶋(みぶべのしま)などの人名がみられるが、これらはそれぞれ孔王部、刑部、壬生部などの姓をもつ百姓である。律令(りつりょう)制のもとで、百姓は班田(はんでん)を給され、租(そ)・調(ちょう)・庸(よう)・雑徭(ぞうよう)などの課役を負担したが、これらの課役を忌避して浮浪・逃亡などの抵抗を行い、律令制度の根幹を下から掘り崩した。
10~11世紀の王朝国家のもとで、百姓は独自で、あるいは郡司(ぐんじ)とともに「郡司百姓等解(ひゃくせいらのげ)」などという訴状を提出し、国司(こくし)の苛政(かせい)を糾弾し罷免を政府に要求するなどの動きを示した。988年(永延2)の尾張(おわり)国郡司百姓等解文は有名である。
11~12世紀の荘園(しょうえん)・公領制の成立とともに、百姓は荘園・公領で年貢・公事(くじ)を負担する身分となった。ただし百姓は農民のみでなく、漁民やその他農業以外の産業に従事する人々も、年貢・公事を納める限り百姓であった。手工業者など百姓の一部は、この年貢・公事を免除され、技術でもって朝廷や貴族・寺社に奉仕する職人(しきにん)として組織された。鎌倉幕府法42条では、百姓は年貢・公事を納めている限り「去留(きょりゅう)」の自由を確保しているものとして規定され、売買・譲渡の客体となる下人(げにん)と明確に区別されている。百姓はまた村落共同体の成員として、その権利と義務をもつ住人という身分をもち、定住の期間が浅く、権利・義務があまり認められていない間人(もうと)や一時的居留や浮浪して歩く浪人と区別されていた。
百姓は、貴族や武士などから土民(どみん)と蔑称(べっしょう)されていたが、14~15世紀には、荘園領主の年貢・公事に反対する荘家(しょうけ)の一揆(いっき)、債務の破棄すなわち徳政を求める徳政一揆などを起こし、これらは在地の土民の一揆ということで土(つち)一揆と称された。百姓のこのような運動の高まりは、一方で自らを「御(おん)百姓」と称し、結集する動きを生み出していった。百姓の上層の土豪層は、名主(みょうしゅ)とか地侍(じざむらい)とよばれ、武士の家臣になり、その軍事力の一端を担って百姓から離脱する者もあり、その傾向は戦国時代に入ると大名の軍事力拡大政策のなかで助長されていった。家臣が主君をないがしろにしたり、場合によっては打倒すること、あるいは、百姓が領主に抵抗すること、さらにこの百姓から武士に上昇していくことなど含めて、当時下位にある者が上に成り代わっていく社会状況は「下剋上(げこくじょう)」とよばれた。
[峰岸純夫]
ところで本来百姓ということばは、農民のみをさすことばではなく、古代では広く庶民一般をさし、中世でも、農村に武士や商人・職人が居住したので、百姓を農村に住む人と解しても、その内容は多種多様であった。だが江戸時代では、百姓はすべて農民であり、農村に居住する人々はすべて百姓という体制が実現した。その意味で、今日の百姓=農民という意味は、江戸時代に確立した。
南北朝期以後、旧来の名(みょう)体制の分解から生まれた中小名主や作人層は、その後室町から戦国時代にかけて、国人(こくじん)・地侍層を中心に、農村に惣(そう)や郷(ごう)などの組織をつくり、農村内で農作業を共同で行い、用水・入会(いりあい)の利用を共同で行い、祭礼などを共同で行うとともに、つねに寄合(よりあい)により農村を運営し、惣や郷の掟(おきて)を決め、違反者の処罰を行い、また農村の代表者を公選で選ぶなど、生活上の強い共同体をつくりだした。郷村制の成立であり、この組織が後の江戸時代の百姓の生活共同体の母体となった。しかも農民は、村内の生活の共同のみならず、荘園領主や守護大名との年貢・諸役の交渉や請負を行い、交渉が不調のときには集団で土一揆を起こし、これに徳政令の要求や、宗教組織が結び付いて、畿内(きない)を中心に多様な農民の一揆が展開した。
応仁(おうにん)の乱(1467~77)に始まる戦国の動乱を通じ、各地に生まれた戦国大名は、独自の分国をつくり対抗するとともに、これら農村の動向に対応し、一方で郷村制を認め農村の運営を彼らに任せ、他方で検地・刀狩を行い、土一揆を禁止した。また武士の城下町移住、国人・地侍層の武士化、商工業者の城下町集住を図った。いわゆる兵農分離政策の開始である。そしてその政策は、やがて織豊(しょくほう)政権により全国に徹底して行われ、太閤(たいこう)検地、刀狩、村切(むらぎり)の実施と村請(むらうけ)制の確立、武士・商工業者の都市への完全移住が進められ、身分法令の実施、全国的人別改(にんべつあらため)の実施により、農村での住民が農民に限定され、百姓身分として定着化された。
さらにその後、江戸幕府がその体制をより完成させ、全国的な兵農分離体制を確立し、士農工商の身分制で、全身分の権限、居住地、職業の地域的引き分けが完成し、農村には農民のみが百姓身分として固定化され、全国的に百姓=農民の体制の確立をみたのである。
そして江戸時代には、幕藩体制の基盤として、領主が、この百姓の居住地=農村を支配的に編成し、そこでの百姓の生活を統制することに努めた。そのため全国に約8万の農村が置かれ、すべて百姓はこのどこかに集住させられ、百姓から選ばれた村役人に、生産や生活を監視され、年貢を徴収された。百姓はその持ち地をすべて検地帳に書き上げられ、人は家族ごとに宗門人別帳(しゅうもんにんべつちょう)に書き上げられ、土地と人の村帰属が決定し、入会地などの区分が行われ、村の領域が決められた。村では、百姓は五人組や村組などにより生活の共同と統制・監視を受けた。また百姓は、中世と同じく村寄合を開き、村の運営を協議し、村法を制定して、村での生活規制を行ったが、兵農分離体制下では、中世よりも統制が強化され、年貢生産者としての百姓の生産・生活の管理と村落による規制が強化された。
しかも領主は、こうした村落の規制に加え、さまざまの法令を制定し、その統制を強化した。慶安御触書(けいあんのおふれがき)(1649)で衣食住や生活の細部を統制し、また土地に対し田畑永代売買の禁令、分地制限令を出し、その移動を禁じ、勝手作り禁令で作物の規制を行ったが、こうした法令は、そのほかにも多数出された。
ではそうした規制下の農村での百姓の実態はどうか。一般に江戸時代の百姓の中核は本(ほん)百姓といい、領主の政策でもそれを基盤としたが、実際には、そのほかに水呑(みずのみ)百姓や名子(なご)、下人(げにん)など、各地域別に各種の下層農民がいた。また本百姓の資格は、一般に本田畑をもち年貢を納入する者というが、これにもその経営規模などでさまざまなものが存在した。ことに初期の各地農村で村役人を勤めた階層には、中世の土豪的領主層が、兵農分離後でも農村に百姓身分として土着した者が多く、彼らは本百姓といっても多くの名子・下人を保有し、中世的大経営を行うものが多く、村のなかでも村役人を勤めるほか、用水・入会などに特権をもつ者が多かった。これらを初期本百姓ともいう。そのほか一般の本百姓の実態も、地域と時期により実に多様であった。
一般的に標準的な経営は、中世の名主経営から自立してきた小農民で、一町歩(約99アール)ほどの土地をもち(分地制限令では10石を基準とする)、田畑と屋敷を保有し、夫婦と子供数人の単婚家族で、自立的小経営を維持していた。だからその経営は、多肥労働集約型小経営が多く、稲とともに各種の畑作物をあわせた複合経営を行ったと考えられる。前述の領主の支配策では、そうした経営の維持を目標とし、諸政策が行われたし、その後もその経営を維持するため、その経営を百姓株として固定し、その分割を制限することも行われた。
江戸時代中期以後、年貢の過重、飢饉(ききん)などの災害の多発と、農村への貨幣経済の流入により、これら自給的な本百姓の経営は大きく変動し、有力農民と貧農への両極分解が展開する。すなわち本来的に生活の豊かな一部有力農民は、事実上の土地売買を通じて地主化し、なかには高利貸を営み、在郷商人化するものも出た。一方、年貢の重圧に苦しみ、商品・貨幣経済の圧迫を受けた下層農民は、質地などで土地を手放し、地主の下で小作人に転落するほか、農業を離れて、各種の雑業で日雇取(ひようとり)化するほか、生活苦から農村を捨てて都市へ流出する者が増加し、一部奉公人化する者もいるが、多くが都市浮浪人化していった。
その結果、本百姓の自立経営を基盤とした農村は大きく変質するとともに、百姓間の対立も激化し、村内で中期以後に多くの村方騒動が引き起こされるとともに、百姓一揆、打毀(うちこわし)の激発を招くなど、村落体制の変動が続いた。
さらにこうした本百姓経営の変動は、旧来その経営よりの年貢収奪で成り立っている領主経済を大きく変動させた。この時期以後に領主層が年貢以外の各種の収入増加策をとるとともに、都市流出民の帰郷、各種の施米・施金や経営の助成、荒れ地の再開発と労働力の確保といった本百姓経営の再建策をとったり、また村役人を中心とする村の機能の再編・強化を図ったのはそのためであるが、これらの政策は、農村の変動の解決には役だたなかった。
やがて明治維新の改革で、旧来の村落支配体制が崩壊し町村制に再編成され、地租改正などで旧来の土地・租税制度が改革されると、農村の体制も農民の経営にも、江戸時代とはかなり変化がみられた。ただ百姓=農民体制はその後も続き、江戸末期から生まれた地主・自作農・小作農を中心とする農村が、その後の多くの変動を伴いながらも今日まで続いてきている。そして江戸時代の百姓の生活共同体であった村は、近代以後も行政村の中の村落として残り続け、今日に至るも各地農村で、労働や生活の共同組織として機能し続けている。したがって江戸時代に確立した百姓=農民の体制は、その背景となった村落とともに今日も形を変えつつも存続しているといえよう。
[上杉允彦]
『児玉幸多著『近世農民生活史』(1957・吉川弘文館)』▽『中村吉治編『村落構造の史的分析』(1956・日本評論社)』▽『原田敏丸著『近世村落の経済と社会』(1983・山川出版社)』