律令制下の官人貴族・地方豪族・公民など良民のすべてを意味する「百姓」は、やがて農民を意味するようになるが、その内容は時代によって異なる。
古代ではヒャクセイと読み,農民に限らずひろく一般人民を指し,万民という言葉と同様な意味で用いられた身分呼称であった。その語源は,古代中国において族姓を有するすべての人のことで,百とは族姓の多いことを示す語である。日本古代の百姓は,オオミタカラ,ミタミなどと呼ばれ,古代王権のもとにあった王民,公民,良民全体を含みこんでおり,律令制下では一般戸籍に編戸された班田農民,地方豪族,官人貴族らは,すべて百姓とされた。他方で賤民である公私の奴婢(ぬひ)と,化外の民である夷狄(いてき)は,百姓身分から除かれて差別・疎外される存在であった。このように編戸にもとづく公民制,良賤・華夷の差別を維持することが,律令制支配の根幹であったが,一般公民の浮浪・逃亡,奴婢の解放,蝦夷の征服と抵抗が進行するにともなって,律令制はしだいに変質・解体していく。とくに班田収授が行われなくなった公田や初期荘園において,〈土人・浪人を論ぜず〉に農人を定め,彼らを堪百姓,負名(ふみよう),田堵(たと),作人(さくにん)などと呼び,こうして生まれた新たな公民,荘民らが,王朝貴族支配下の百姓となった。彼らは公田,荘田を大小の〈名(みよう)〉に分割して経営し,名田に課せられる官物(かんもつ),地子(じし)の納入責任を負うが,令制下の公民のような人身支配をうけず,移動・居住の自由をみとめられ,百姓治田など私財を所有し,権利侵害や非法苛政に対して訴訟や上訴を行うことができた。彼ら百姓身分の上層には在地領主や〈大名〉の田堵百姓がおり,その領主経営,名田経営の内部に,彼らを主人とし人格的に隷属して奉仕し駆使される下人(げにん),従者,所従(しよじゆう)など非自由民が存在したが,一般荘公民である百姓は,この下人らと身分的に区別される一種の自由民であった。
中世の荘園体制が確立すると,荘内田畠を分割して名田が編成され,坪付(つぼつけ)と名称を定めた各名田を単位として年貢,公事(くじ),夫役(ぶやく)を賦課する収取体系ができあがり,荘民百姓がそれぞれの名田の名主(みようしゆ)に補任(ぶにん)され,名主百姓が荘民を代表する呼称となった。荘園本来の名田である〈本名(ほんみよう)〉の名主百姓のほかに,平百姓,脇百姓,小百姓,間人(もうと)などと呼ばれる中下層百姓がおり,本名以外の領主直属地である間田,一色田などを耕作した。荘園村落の内部においては,本名の名主百姓は〈おとな〉などとして村座を構成する指導的・特権的上層をなし,小百姓らはこの村落秩序から疎外され,副次的な地位を与えられるにとどまった。しかし荘園支配が続く中で,小百姓,脇百姓らは村座の本座に対して新座を形成するなど,荘園村落内における地位を向上させ,旧来の本名を改編した新名の名主百姓に成長していく。それは農村諸階層の多様な変動をともなう複雑な過程であったが,荘家の一揆(しようけのいつき)から土一揆(つちいつき)へと農民闘争が展開し,荘園村落における惣的結合が進むにつれて,農民相互を結びつけて領主階級に対抗する〈御百姓〉の意識が強化されていった。
→地下請(じげうけ)
執筆者:戸田 芳実
中世から近世への転換期には兵農分離(検地,刀狩)が強行され,都市と農村の分離,城下町建設(武士団の城下への集住,武士の生活と軍備をささえる職人,商人の城下への集中)が推進されて,士農工商の4身分が確定された。この4身分中の農と百姓とは同義ではない。農民のうちで特定条件を備えているものが百姓であった。太閤検地以後,領主権力の指向するところは,高請(たかうけ)農民を百姓にとりたて,百姓を権力の基礎として掌握し,百姓から直接(作間(さくあい)の禁止),年貢・諸役を徴集することであった。しかし近世初期検地での高請農民中には,中世以来の系譜をひく有力農民もいれば,半隷属的小農民も含まれていた。このほかにも帳外(ちようはずれ)の隷属農民が多数存在していた。これらの隷属的・半隷属的弱小農民は,自立した百姓としての地位をいまだ確立していなかった。初期においては,年貢(生産物地代)はたてまえとして高請農民全体に賦課されていたが,夫役(ぶやく)(労働地代)は役負百姓(やくおいびやくしよう)が負担し,村内上層の有力農民が役負百姓とされた。そのため村請年貢の実際上の負担責任者が役負百姓となり,初期の名寄(なよせ)帳(村請年貢納入のための村内土地台帳)においては,役負百姓だけが登録されて,弱小高請農民は除外されていた。近世初期,17世紀前半期においては,高請地を所持し,年貢と夫役とを負担する役負百姓が厳密な意味での百姓であり,これを初期本百姓ともいう。初期本百姓は,検地帳に田畑とともに屋敷を登録され,家族形態は複合大家族(直系親族,半隷属的傍系親族,隷属的非血縁下人などから成る)の形態をとり,大規模農業経営(数町~十数町)を営んでいた。彼らは村落内部の生産,生活,祭祀などの全般にわたって弱小農民に対して優位を保持し,用水,農用林野(肥料,燃料,用材の供給地)を支配し,宮座(みやざ)に列するなどした。
17世紀後半期には小農の自立がすすみ,複合家族が解体して傍系親族や下人が分立し,隷属的・半隷属的小農民の零細石高(こくだか)所持者への転化,あるいは水呑(みずのみ)への転化が進行し,所持石高の大小にかかわらず石高所持者がすべて百姓として領主に掌握されるようになった。幕領では1660~70年代,寛文・延宝検地を境にして,検地帳に高請地の登録を受けた高持百姓が百姓とされ,これが本百姓と呼ばれた。彼らの家族構成は単婚小家族形態をとり,農業経営は小農経営を営んだ。小農の自立に照応して,石高所持者を村落構成員とする小農村落が成立し,石高所持の有無が村落構成員たる資格の基準となり,石高所持者が本百姓として村請(むらうけ)年貢と村入用の負担責任者とされた。村落内においては,村役人とひら百姓の違いを含んでいても,両者はともに百姓であった。これに対し無高の者は,水呑と呼ばれて村の寄合からも排除されていた。水呑はしばしば水呑百姓とも呼ばれるが,17世紀末ころ以後においては,厳密には高持百姓たる本百姓が百姓である。
領主による百姓支配の基軸は,小農を百姓として自立させ,百姓を石高制にもとづく生産物年貢の負担者として掌握し,それを領主権力の基礎に据え,権力の経済的基盤としての百姓経営を強化し,その数を増加させ,より多くの年貢・諸役を百姓から取り上げることであった。したがって近世初期,小農の自立過程においては,領主は小農自立策を内容とするさまざまの勧農施策を打ち出した。特に,領主が施工主体になって推進した土木灌漑工事は,農業の生産基盤を飛躍的に強化・拡大させ,小農自立の生産力的基礎を創出し,隷属的小農民の百姓への成長転化に大きく寄与した。これと同時に,五人組制度,田畑永代売買禁止令,分地制限令,そのほか農民生活や農業生産を規制する御触書(おふれがき)(たとえば慶安御触書)などによって,百姓は土地に緊縛されて年貢・諸役を負担するものとされた。百姓は高請地の年貢納入義務を完済するかぎり,田畑の耕作と屋敷への居住を末代にいたるまで保障された。しかし離農・離村は許されない。
領主の百姓に対する年貢賦課の原則は,〈一年の入用作食をつもらせ,其余を年貢に収べし,百姓は財の余らぬ様に不足なき様に,治る事道なり〉(《本佐録》)という記述に端的に示されている。再生産を維持しうる最小限の作食入用を百姓の手もとに残し,それを越えるすべてを年貢として取り上げろという。備前岡山藩主池田光政(1609-82)の言葉に〈百姓といふものは,米をは不食者,糠(ぬか)・はしか(芒)なと食物にする物にて候よし……,惣して百姓も人に候へは米を食する筈にて候共,得不食様に此方より仕置仕故,近年は不食候〉(《藩法集岡山藩》)とある。百姓は米を作るが米を食わない。作った米の大部分を年貢として上納するからである。
百姓の諸負担には,石高に対して賦課される本年貢(本途物成(ほんとものなり))のほかに,小物成(こものなり)や夫役の負担が加わる。本年貢は現物米納を主体にして一部石代納(こくだいのう)(上方幕領の三分一銀納,十分一大豆納,関東の畑永(はたえい)など)が認められていた。雑税としての小物成は,初期には山野の特産物による現物納を含んでいたが,やがて代金納に変化した。夫役は本来,本年貢とならんで石高に賦課される労働地代であり,初期には陣夫(じんぷ)役,普請(ふしん)夫役,運搬夫役,町夫役などが役負百姓(初期本百姓)から徴発された。17世紀中葉以後,石高制が貫徹して小農が百姓として自立するようになると,夫役もまた代金納(幕領では高掛三役(たかがかりさんやく))にかわっていった。しかし中期以後においても,百姓からの労働徴発が完全に消滅したのではなく,街道筋村々での助郷(すけごう)役,あるいは現物年貢納入義務にともなう年貢運搬労働(村方5里以内は百姓の負担)などとして,その後にも残った。これらの年貢・諸役の諸負担は年貢徴集機構としての村を通して百姓に賦課され,その完済は村中惣百姓の連帯責任とされ,村役人がその実務を担当した。
太閤検地の実施以後およそ1660~70年代(寛文・延宝期)ころまでは,小農が支配権力の基礎として掌握されながらも,小農の未成熟さのために,中世的な古い生産関係にもとづく村落上層農民(初期本百姓)の農業経営と,そのもとで徐々に自立度を高めつつある小農経営とが併存していた。中世名主の系譜をひく初期本百姓の農業経営は解体しつつある生産形態であり,小農経営は近世期農業の基本的な生産形態として自己を確立しつつあった。村落上層の初期本百姓の農業経営の特徴は,隷属的性格の労働を利用して大経営を営む点にある。すなわち,家内奴隷的性格をもつ譜代下人(ふだいげにん)の労働と,半隷属的な小農の提供する賦役労働とに依拠して,大経営が維持されていた。半隷属的小農は名子,被官,家抱(けほう),隠居,門屋(かどや)など各地でさまざまの呼び方をされているが,これらはいまだ自立を達成しえない自立過程にある小農の姿である。これらの小農は親方,御家,公事屋,役家などと呼ばれる村落上層農民(初期本百姓)に隷属し,生産・生活の全般にわたって主家の支配と庇護を受けていた。彼らは主家から零細耕地を分与され,主家の許しを受けて刈敷場(かりしきば)から肥料を採取し,自分持ちの小農具(鍬(くわ),鎌(かま))で分与地を耕作し,そこで自己の再生産をまかない,一定日数の賦役労働を主家の農業経営に提供した。主家への労働提供に際しては,大農具(家畜,犂(すき))は主家のものを使用し,小農具は自分持ちの農具を持参して使用し,食事の給付などを受けた。
近世初期における農業の発達の水準のもとでは,農業の基調は自給的穀作農業におかれていた。村落上層の大経営では,耕耘過程で畜力を利用し,犂を使用して耕起した。肥料は山野で採取される草や灌木の若芽である。これを稲作の苗代(なわしろ)にも本田の元肥(もとごえ)にも利用する。それを採取する労働量は田植労働量にも匹敵する。そのために刈敷採取労働と田植労働との重複する田植期には,極端な労働需要のピークが出現する。収穫から脱穀への作業過程でも労働需要がたかまる。扱箸(こきばし),扱管(こきくだ)による脱穀技術の低さが所要労働量を増大させるが,これに加えて,領主側で要求する米納年貢納入期限の厳守にせきたてられて作業期間が短縮され,労働需要のピークが極端に高くなる。村落上層の農業経営では,春秋2期の農繁期の労働需要を切り抜けるために半隷属的小農の賦役労働が充当される。年間を通じて恒常的に必要な労働には譜代下人の労働が充当され,農繁期の集中的に必要な季節的労働に賦役労働の提供を受けた。このような中世的遺制に支えられた農業経営の存立する基盤は,農業の発達水準の低さにある。農業生産力の上昇をふまえて半隷属的小農が百姓として自立するようになれば,上記の農業経営は姿を消す。しかし後進地や山間僻地ではそれが過去の遺制として存続しつづけた。
全体として自給的穀作農業が支配していた初期にも,はやくから購入肥料を利用して販売用作物を栽培していたのが,大坂周辺を中心とした畿内地方である。泉州大鳥郡踞尾(つくのお)村に残された農業経営帳簿によれば,1673-78年(延宝1-6)には,村落上層部に属する初期本百姓の農業経営において,田畑ともに干鰯(ほしか)が投入され,田にも販売用の棉が作付けられていた。この経営での農業従事者には,恒常的な労働要員として血縁家族,譜代下人,年季奉公人があり,そのほかに臨時的な労働要員として,無償の労働提供を行う借家,分家,小作人などがいる。最後の3者と譜代下人とは隷属的性格をもつ労働主体であるが,年季奉公人を雇用している点に,この経営の特徴が現れている。1670年代に,いちはやく大量の金肥(きんぴ)を利用しつつ,一部に年季奉公人を雇用して商品作物栽培に従事している点に,畿内先進地における初期本百姓の農業経営の姿が示されている。
1660~70年代(寛文・延宝期)を経過して小農が百姓として自立するとともに,小農経営としての百姓経営もまた確立する。小農経営としての百姓経営こそ,近世農業の基本的経営形態である。その農業経営の第1の特徴は,小家族(単婚小家族形態)の自家労働と自己所有の小農具とを駆使して,領主に認められた所持地(高請地)を自己の責任のもとで耕作するという点にある。その意味で百姓は自立した小生産者である。小農経営の依拠する耕地は零細圃場の錯綜状態をその特徴とする。この耕地形態は小農が百姓として自立する過程で形成された,といわれている。小農の利用しうる労働組織は,家族労働の範囲内に限定されている。春秋2期の農繁期を単婚小家族による家族協業で切り抜けるには,錯圃形態の耕地が適していた。この圃場条件に支えられて,家族労働を中核にしながら,農繁期の補完的労働として〈ゆい〉を採用し,小農の家族形態に照応した労働組織が構成される。小農経営に適合的な耕耘用具は鍬である。これを使用して田畑とも,耕起,砕土,中耕が行われる。鍬の用途別分化もすすみ,除草用の小型の熊手や雁爪(がんづめ),耕起用の備中鍬など,さまざまな鍬が考案され出す。近世末期の農書《農具便利論》(1822)は,その分化・普及の状況を伝えている。収穫用具は鎌である。脱穀用具は,17世紀から18世紀の移行期には,扱箸,扱管から千歯扱(せんばこき)へと変化し,作業能率は10倍になったといわれる。調整用具は,籾摺(もみすり)には2人で動かす木製の木摺臼,選別は風選である。
小農経営としての百姓経営の第2の特徴は,その生産=再生産が小農村落を単位にして行われるという点にある。小農村落は小農がそこから切りはなされては自己の生産・生活を維持しえないような地域的なまとまりをもち,そのまとまりが農業生産,農民生活の単位となるような村落である。太閤検地は,小農の自立過程で徐々に形成されつつある生産・生活上の単位としての地域をとらえ,そこに地代収取の末端機構としての行政村を設定し,そのことによって小農村落の形成に直接的な契機を与えた。しかし,それによって形成された近世初期村落は初期本百姓の村であり,中世から受けついだ同族団的結合にもとづくヒエラルヒッシュな階層関係が解体過程にありながらも維持されて,それが初期村落中にもちこまれた。小農の自立とともに古い諸関係をまとう初期村落は解体し,地域差をともないながらも,17世紀末ころには,石高所持者を構成員とする小農村落が確立する。これによって小農経営としての百姓経営は,生産=再生産の強固な基盤を獲得する。小農経営は自立的な小農=百姓による農業経営である。しかしそれは孤立して営まれるのではない。小農村落の管理下にある用水・林野の共同利用に媒介されて,はじめて自立的な小農経営となる。零細錯圃形態をとる耕地のうえで,用水の共同利用が行われるとき,農業に対する強い村落規制が発生する。さらに肥料が自給的な刈敷に依存する場合には,入会山(いりあいやま)の口明(くちあけ)が村全体で決定され,林野の共同利用を通して村落規制の拘束下におかれる。村を単位にした生産・生活の一環として,小農たる百姓の生産・生活が保障されている。
小農経営が確立すると,初期本百姓の系譜を引く上層の百姓の農業経営は,隷属的労働への依存を断ち切られて,年季奉公人を雇用する地主手作(てづくり)経営へと移行する。年季奉公人は小農=百姓の単婚小家族から放出される。年季奉公人は小農経営の再生産を補完する役割を担っている。したがって,小農経営の再生産過程の中に農業労働の供給源を求める手作経営の性格は小農経営の動向に規定されることになる。
近世農業の典型は自給的穀作農業にある。百姓は,穀作に重点をおきつつ雑多な作物を必要に応じて少量ずつ作る。田では年貢のための米を作る。収穫した米の大部分が年貢米として取り上げられる事情のもとでは,百姓の自給自足的な日常生活は,主として畑作で支えられている。畑では雑穀(麦,アワ,ヒエ,ソバ,大豆など)を作って食料にする。そのほか少量の苧麻(からむし),棉などを作って自給衣料の原料とし,屋敷まわりには前栽物(せんざいもの)を作って蔬菜を自給する。自給自足的な百姓の生産・生活を支えるのに必要な年間の農作業には,田畑での本来の農耕の諸作業とともに,山野での山仕事および農産物加工の仕事が含まれている。山野での労働によって,肥料,飼料,燃料,農用資材,土木建築用材などが自給される。自己農業で生産した衣料原料を加工して衣料をも自給する。村内で自給しえない特定の物資(鉄製農具,塩など)を除いて,百姓の生産・生活に必要な諸物資は,村を基盤にした自給自足的生産・再生産によってまかなわれている。村の外から供給される鉄製農具や塩などの物資についても,自由な市場での貨幣による購買を通して百姓が入手するのではない。領主の手に集められた物資が藩専売制の形をとって村々に供給され,それに対する支払については,年貢納入に類似する形態で,百姓が自己生産物を現物で支払うのである。
領主は,自給自足的生産・生活の単位としての村を掌握して年貢を収取した。本年貢は主として米,これに小物成が加わり,それが領主の御蔵に現物形態で収納される。その一部は現物のまま領主および家臣団の自己消費に当てられるが,他の部分は,三都および城下町の都市人口の需要に向けて,都市商人の手を経て販売される。米を主体にした現物年貢の商品化を起点にして,都市需要を充足するための,都市商人に担われた全国的商品流通組織が形成される。この流通組織のもとで,自給自足的農村を基盤にした百姓経営が都市需要のための特産物の生産と販売へ動き出す。最初の変化は畑作から始まる。米納年貢の重圧を受ける自給自足的な百姓経営にとって,畑作は百姓の日常生活を支える場であった。生活をうるおすための販売用作物の栽培が畑作ではじまる。まず商品になったものは,都市の日常的消費をまかなうための蔬菜であった。各地の城下町では,生鮮食料の供給を周辺農村に依存していたが,1700年ころには,大坂周辺の畑場(はたば)8ヵ村,京都周辺の蔬菜・果実の名産地,金沢周辺の蔬菜作地帯などが,それぞれの都市への蔬菜供給地帯を形成していた。都市向けの販売用作物は近郊蔬菜には限らない。大坂周辺には棉作地帯,菜種作地帯が形成され,棉作,蔬菜作が東海・瀬戸内地方にもひろがっていった。このほか阿波の藍,出羽村山地方の紅花,上州や信達地方の養蚕,薩摩・讃岐の砂糖などは,いずれも江戸,大坂,京都などの都市の需要と結びついて特産地を形成し,その流通組織は都市商人あるいは藩専売制の統制下におかれていた。
領主の年貢の商品化,都市商人の担当する全国的商品流通組織,そのもとでの農産物商品化,特産地形成という方向での農業の発展は,百姓経営における畑作に変化をおよぼす。畑作での販売用作物の作付率の増大,購入肥料の使用,農業技術の集約化をもたらす。自給的穀作農業からの脱却は自給肥料から購入肥料への移行に示されるが,それは大坂周辺の棉作農業からはじまる。大坂周辺で干鰯が利用されるのは17世紀中葉以降であり,百姓の記録中で干鰯利用を最初に確認しうるのは,先に指摘した泉州踞尾村の農業経営帳簿(1673)である。そこでは田畑ともに棉が作付けられ,干鰯が利用されて棉にも稲にも与えられている。18世紀にはいると採草地を欠いた大和川川床新田が出現し,そこでは購入肥料を利用し,畑はすべて棉作に当てられていた。河内中・南部の旧村でも棉作等は30~50%におよんでいる。棉作農業の普及にともなって,農業技術もまた集約化した。1697年(元禄10)に刊行された《農業全書》(宮崎安貞著)は,大坂周辺農村を先頭にする畿内先進農業の,当時の発達水準を概括的に伝えている。そこには,周到な肥培管理を行い,多労働と多肥料とを投下して,単位面積当りの収穫量を増大させるという方向での,小農技術の高度な水準が示されている。これ以後における近世農業全体の趨勢は,17世紀末~18世紀初頭の時期に大坂周辺農村で実現された先進的農業(小農経営の枠組みの中での最高度の発展)が,各地に伝播してゆく方向をたどる。
17世紀末~18世紀初頭以降における上述のような農業の発達は,百姓経営(小農経営)に担われた農業生産力の発達である。大坂周辺農村では元禄期(1688-1704)には農産物の販売がみられ,田畑永代売買禁止令下での事実上の永代売が行われ,それにともなって百姓所持地の集中と喪失がすすみ,質地小作関係が展開する。1723年(享保8)の流地禁止令撤回を経て,質地小作は各地で広範に,急速に展開する。これは近世初期の名田小作と本質的に異なる地主・小作関係である。すなわち,小農としての百姓の自立を前提にし,百姓経営に担われた生産力上昇を基礎にし,年貢収奪強化に対する百姓の抵抗(百姓一揆)を踏まえて,年貢完済後に百姓が自由にしうる余剰を生み出し,以上の諸点を条件にして土地の質入れが行われるとき,質地小作が発生する。百姓をその所持の質入れ(事実上の永代売)に追い込んでゆく素朴で深刻な契機は,不慮の災厄による年貢未納であり,未納分を所持地の質入れで皆済するとき,質地小作が生まれる。質取主は小作料取得をねらって金銭を融通し,質入人は質入地を耕作して小作料を納める(質地直小作(じきこさく))。村役人の年貢納入事務に結びつく金融活動によって,質地の集積が村役人のもとですすむ。さらに,都市商人の掌握する商品流通組織のもとで,農産物の販売が行われるとき,質地の集積が村役人のもとで急速にすすむ。都市商人の集荷組織は村役人の商業的・金融的機能を媒介にしている。肥料や金銭の前貸しをてこにして百姓の農産物を集荷し,その過程で零落した百姓の所持地が集積される。このように,村役人が村役人としての機能と結びついて,手作規模を越える質地の集積を行い,商業的・金融的機能を営みつつ,手作経営を営む。このような質地地主を,豪農と呼ぶのである。
各地に地域的発達の差を内包する近世農業の中で,先進地農業の動向を大坂周辺農村で代表させることができる。大坂周辺農村では1820年代,文政期を迎えるころから,質地小作の水準を乗り越えて,明治以降の地主制の原型をなす地主・小作関係が形成されはじめる。しかし残余の広範な地域での動向は,大坂周辺農村と同一水準のものではない。残余の地域での大勢は,質地小作が展開する中で豪農が存立しているという状況にあり,これが明治期を迎える時点での各地の姿だったといえる。大坂周辺農村では商品作物栽培が下層の小百姓にまで普及し,17世紀末の事実上の永代売にはじまる土地集積は,18世紀以後さらに進行して新興の大高持百姓を輩出させる。これが小作地を貸し出すとともに,3~5町歩の地主手作経営を行い,下層小百姓の放出する年季奉公人を雇用して商品作物栽培に従事する。地主手作経営の展開とともに,新興大高持と旧来の村役人との間では村役人層の交替がみられるが,これが零細小農民をも巻き込んで村方騒動をともないながら進行する。農村の諸階層のすべてに普及した商品作物栽培は,農産物商品化の条件をめぐって,特権的商品流通組織を掌握する大坂商人と商品作物栽培者との対立を生み出す。
文政期(1818-30)になると,大坂商人の市場統制に対抗する在郷の動きが活発化する。1823年,摂河2ヵ国1007ヵ村を糾合した国訴(こくそ)が発生し,その翌年さらに摂河泉3ヵ国1307ヵ村による国訴が展開し,綿関係(実綿(みわた)・繰綿(くりわた)),油関係(菜種,綿実(わたみ),油)の商品に対する都市株仲間の流通独占に反対して闘争した。この闘争では,商品作物栽培に従事する村役人(地主手作経営を営む)がその動きの先頭に立ち,広範な村々を糾合し,合法的手段(訴訟)を通して都市商人に対立し,一応の成果を収めることができた。この時期以後,大坂周辺農村では,農産物商品化が一段とすすみ,地主手作経営を営む村役人の土地集積もまた急激にすすむ。しかし集積された土地は手作地の拡大には向けられず,地主・小作関係を拡大することになった。それは経営規模拡大による生産性の向上によって,より有利な商品生産を行う技術的・社会的条件を欠いていたからである。17世紀末以降の農業の発展は,百姓経営(小農経営)を基盤にしていた。小農経営に独自な生産力発展の方向は,労働生産性の向上ではなく,集約的技術による反当収量の増加である。さらに加えて,小農経営の立脚する耕地条件(錯圃制)と,その利用にまつわる社会的制約とが,大規模経営の存立を許さなかった。そのため土地集積の進行は,地主・小作関係の拡大に結果し,1820年代以後,新興の地主を輩出した。この時期になると,領主層の財政が極度に悪化し,新興の地主から金融を受け,財政維持のために,彼らの経済力への依存を強めた。そのために,地主層の立場を擁護する必要から,領主権力が地主の小作料収奪に不可欠な強制力の,隠然たる支柱となった。
1820年代以後の大坂周辺農村で形成されていた地主・小作関係は,土地が売買可能な財産であることを実質において備えていた。地租改正は,そのような土地所有権を法律的に認めた。質地地主の段階にとどまっていた関東や東北においては,質入地は質期間が過ぎても,ながく所持名義人を変更しない慣習があったが,地租改正の過程で質権者に,大坂周辺で実質において成立していた土地所有権と同じ内容の所有権を認めることによって,土地所有の移動を活発にし,質地地主の土地所有の内容を変えていった。
執筆者:葉山 禎作
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
古代では「ひゃくせい」ともいい、貴族や官僚、下層の部民(べみん)や奴婢(ぬひ)を除く姓氏を有するあらゆる公民(こうみん)(国家の民、「おおみたから」ともいう)を意味した。下総(しもうさ)国葛飾(かつしか)郡大嶋郷(おおしまごう)(東京都江戸川区・葛飾区の一部)の戸籍に、孔王部小山(あなおべのおやま)、孔王部忍秦(おしはた)、刑部止手(おさかべのして)、壬生部嶋(みぶべのしま)などの人名がみられるが、これらはそれぞれ孔王部、刑部、壬生部などの姓をもつ百姓である。律令(りつりょう)制のもとで、百姓は班田(はんでん)を給され、租(そ)・調(ちょう)・庸(よう)・雑徭(ぞうよう)などの課役を負担したが、これらの課役を忌避して浮浪・逃亡などの抵抗を行い、律令制度の根幹を下から掘り崩した。
10~11世紀の王朝国家のもとで、百姓は独自で、あるいは郡司(ぐんじ)とともに「郡司百姓等解(ひゃくせいらのげ)」などという訴状を提出し、国司(こくし)の苛政(かせい)を糾弾し罷免を政府に要求するなどの動きを示した。988年(永延2)の尾張(おわり)国郡司百姓等解文は有名である。
11~12世紀の荘園(しょうえん)・公領制の成立とともに、百姓は荘園・公領で年貢・公事(くじ)を負担する身分となった。ただし百姓は農民のみでなく、漁民やその他農業以外の産業に従事する人々も、年貢・公事を納める限り百姓であった。手工業者など百姓の一部は、この年貢・公事を免除され、技術でもって朝廷や貴族・寺社に奉仕する職人(しきにん)として組織された。鎌倉幕府法42条では、百姓は年貢・公事を納めている限り「去留(きょりゅう)」の自由を確保しているものとして規定され、売買・譲渡の客体となる下人(げにん)と明確に区別されている。百姓はまた村落共同体の成員として、その権利と義務をもつ住人という身分をもち、定住の期間が浅く、権利・義務があまり認められていない間人(もうと)や一時的居留や浮浪して歩く浪人と区別されていた。
百姓は、貴族や武士などから土民(どみん)と蔑称(べっしょう)されていたが、14~15世紀には、荘園領主の年貢・公事に反対する荘家(しょうけ)の一揆(いっき)、債務の破棄すなわち徳政を求める徳政一揆などを起こし、これらは在地の土民の一揆ということで土(つち)一揆と称された。百姓のこのような運動の高まりは、一方で自らを「御(おん)百姓」と称し、結集する動きを生み出していった。百姓の上層の土豪層は、名主(みょうしゅ)とか地侍(じざむらい)とよばれ、武士の家臣になり、その軍事力の一端を担って百姓から離脱する者もあり、その傾向は戦国時代に入ると大名の軍事力拡大政策のなかで助長されていった。家臣が主君をないがしろにしたり、場合によっては打倒すること、あるいは、百姓が領主に抵抗すること、さらにこの百姓から武士に上昇していくことなど含めて、当時下位にある者が上に成り代わっていく社会状況は「下剋上(げこくじょう)」とよばれた。
[峰岸純夫]
ところで本来百姓ということばは、農民のみをさすことばではなく、古代では広く庶民一般をさし、中世でも、農村に武士や商人・職人が居住したので、百姓を農村に住む人と解しても、その内容は多種多様であった。だが江戸時代では、百姓はすべて農民であり、農村に居住する人々はすべて百姓という体制が実現した。その意味で、今日の百姓=農民という意味は、江戸時代に確立した。
南北朝期以後、旧来の名(みょう)体制の分解から生まれた中小名主や作人層は、その後室町から戦国時代にかけて、国人(こくじん)・地侍層を中心に、農村に惣(そう)や郷(ごう)などの組織をつくり、農村内で農作業を共同で行い、用水・入会(いりあい)の利用を共同で行い、祭礼などを共同で行うとともに、つねに寄合(よりあい)により農村を運営し、惣や郷の掟(おきて)を決め、違反者の処罰を行い、また農村の代表者を公選で選ぶなど、生活上の強い共同体をつくりだした。郷村制の成立であり、この組織が後の江戸時代の百姓の生活共同体の母体となった。しかも農民は、村内の生活の共同のみならず、荘園領主や守護大名との年貢・諸役の交渉や請負を行い、交渉が不調のときには集団で土一揆を起こし、これに徳政令の要求や、宗教組織が結び付いて、畿内(きない)を中心に多様な農民の一揆が展開した。
応仁(おうにん)の乱(1467~77)に始まる戦国の動乱を通じ、各地に生まれた戦国大名は、独自の分国をつくり対抗するとともに、これら農村の動向に対応し、一方で郷村制を認め農村の運営を彼らに任せ、他方で検地・刀狩を行い、土一揆を禁止した。また武士の城下町移住、国人・地侍層の武士化、商工業者の城下町集住を図った。いわゆる兵農分離政策の開始である。そしてその政策は、やがて織豊(しょくほう)政権により全国に徹底して行われ、太閤(たいこう)検地、刀狩、村切(むらぎり)の実施と村請(むらうけ)制の確立、武士・商工業者の都市への完全移住が進められ、身分法令の実施、全国的人別改(にんべつあらため)の実施により、農村での住民が農民に限定され、百姓身分として定着化された。
さらにその後、江戸幕府がその体制をより完成させ、全国的な兵農分離体制を確立し、士農工商の身分制で、全身分の権限、居住地、職業の地域的引き分けが完成し、農村には農民のみが百姓身分として固定化され、全国的に百姓=農民の体制の確立をみたのである。
そして江戸時代には、幕藩体制の基盤として、領主が、この百姓の居住地=農村を支配的に編成し、そこでの百姓の生活を統制することに努めた。そのため全国に約8万の農村が置かれ、すべて百姓はこのどこかに集住させられ、百姓から選ばれた村役人に、生産や生活を監視され、年貢を徴収された。百姓はその持ち地をすべて検地帳に書き上げられ、人は家族ごとに宗門人別帳(しゅうもんにんべつちょう)に書き上げられ、土地と人の村帰属が決定し、入会地などの区分が行われ、村の領域が決められた。村では、百姓は五人組や村組などにより生活の共同と統制・監視を受けた。また百姓は、中世と同じく村寄合を開き、村の運営を協議し、村法を制定して、村での生活規制を行ったが、兵農分離体制下では、中世よりも統制が強化され、年貢生産者としての百姓の生産・生活の管理と村落による規制が強化された。
しかも領主は、こうした村落の規制に加え、さまざまの法令を制定し、その統制を強化した。慶安御触書(けいあんのおふれがき)(1649)で衣食住や生活の細部を統制し、また土地に対し田畑永代売買の禁令、分地制限令を出し、その移動を禁じ、勝手作り禁令で作物の規制を行ったが、こうした法令は、そのほかにも多数出された。
ではそうした規制下の農村での百姓の実態はどうか。一般に江戸時代の百姓の中核は本(ほん)百姓といい、領主の政策でもそれを基盤としたが、実際には、そのほかに水呑(みずのみ)百姓や名子(なご)、下人(げにん)など、各地域別に各種の下層農民がいた。また本百姓の資格は、一般に本田畑をもち年貢を納入する者というが、これにもその経営規模などでさまざまなものが存在した。ことに初期の各地農村で村役人を勤めた階層には、中世の土豪的領主層が、兵農分離後でも農村に百姓身分として土着した者が多く、彼らは本百姓といっても多くの名子・下人を保有し、中世的大経営を行うものが多く、村のなかでも村役人を勤めるほか、用水・入会などに特権をもつ者が多かった。これらを初期本百姓ともいう。そのほか一般の本百姓の実態も、地域と時期により実に多様であった。
一般的に標準的な経営は、中世の名主経営から自立してきた小農民で、一町歩(約99アール)ほどの土地をもち(分地制限令では10石を基準とする)、田畑と屋敷を保有し、夫婦と子供数人の単婚家族で、自立的小経営を維持していた。だからその経営は、多肥労働集約型小経営が多く、稲とともに各種の畑作物をあわせた複合経営を行ったと考えられる。前述の領主の支配策では、そうした経営の維持を目標とし、諸政策が行われたし、その後もその経営を維持するため、その経営を百姓株として固定し、その分割を制限することも行われた。
江戸時代中期以後、年貢の過重、飢饉(ききん)などの災害の多発と、農村への貨幣経済の流入により、これら自給的な本百姓の経営は大きく変動し、有力農民と貧農への両極分解が展開する。すなわち本来的に生活の豊かな一部有力農民は、事実上の土地売買を通じて地主化し、なかには高利貸を営み、在郷商人化するものも出た。一方、年貢の重圧に苦しみ、商品・貨幣経済の圧迫を受けた下層農民は、質地などで土地を手放し、地主の下で小作人に転落するほか、農業を離れて、各種の雑業で日雇取(ひようとり)化するほか、生活苦から農村を捨てて都市へ流出する者が増加し、一部奉公人化する者もいるが、多くが都市浮浪人化していった。
その結果、本百姓の自立経営を基盤とした農村は大きく変質するとともに、百姓間の対立も激化し、村内で中期以後に多くの村方騒動が引き起こされるとともに、百姓一揆、打毀(うちこわし)の激発を招くなど、村落体制の変動が続いた。
さらにこうした本百姓経営の変動は、旧来その経営よりの年貢収奪で成り立っている領主経済を大きく変動させた。この時期以後に領主層が年貢以外の各種の収入増加策をとるとともに、都市流出民の帰郷、各種の施米・施金や経営の助成、荒れ地の再開発と労働力の確保といった本百姓経営の再建策をとったり、また村役人を中心とする村の機能の再編・強化を図ったのはそのためであるが、これらの政策は、農村の変動の解決には役だたなかった。
やがて明治維新の改革で、旧来の村落支配体制が崩壊し町村制に再編成され、地租改正などで旧来の土地・租税制度が改革されると、農村の体制も農民の経営にも、江戸時代とはかなり変化がみられた。ただ百姓=農民体制はその後も続き、江戸末期から生まれた地主・自作農・小作農を中心とする農村が、その後の多くの変動を伴いながらも今日まで続いてきている。そして江戸時代の百姓の生活共同体であった村は、近代以後も行政村の中の村落として残り続け、今日に至るも各地農村で、労働や生活の共同組織として機能し続けている。したがって江戸時代に確立した百姓=農民の体制は、その背景となった村落とともに今日も形を変えつつも存続しているといえよう。
[上杉允彦]
『児玉幸多著『近世農民生活史』(1957・吉川弘文館)』▽『中村吉治編『村落構造の史的分析』(1956・日本評論社)』▽『原田敏丸著『近世村落の経済と社会』(1983・山川出版社)』
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古代では「ひゃくせい・はくせい」とも。古代中国では種々の姓をもつ人の総称,すなわち一君万民の万民を意味した。律令制下でも,皇族・奴婢をのぞく,班田農民・地方豪族・貴族を含む語として使用された。中世社会の一般人の法的身分は侍と凡下(ぼんげ)にわかれていたが,しだいに百姓が凡下にかわって侍に対する身分呼称として用いられるようになった。荘園制下で,百姓の多くが農業に従事し,しだいに耕地との結びつきを強めていくと,土地を所持する百姓=農民という社会観念が強くなった。しかし現実には,漁民・商人などの非農業民も,苗字をもつ侍身分に対して,苗字をもたない百姓身分の者として多く存在した。近世に入って,百姓のなかから商人・職人などが城下町などの都市に集住させられ町人身分として分化し,在郷の田畑を所持する人々は,その土地を検地帳に登録され百姓身分とされた。これによって,百姓=農民という身分が体制化した。しかし近世においても,なお百姓身分のうちに,田畑をもち,漁民・職人など種々の職業を本業とする人々を含んでいた。
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…農民が所持するいっさいの武具を没収し,武装を禁止する領主側の施策。中世では百姓が武装することは禁止されておらず,去留の自由も認められていた。百姓が侍衆の被官として戦闘に参加する例も多く,土一揆,一向一揆のなかでも武器を手にして戦った。…
…このほかに国内に産しない領主層の要求する商品は,オランダ人と中国人に限定された特殊な長崎貿易によって得られるが,それへの対価は領主の手に生産物が入る鉱山の産物や,海産物たる俵物の輸出によって賄われる。
[小農社会の特質]
ここでいう小農は,ふつう百姓と呼ばれている。百姓という語は古くから用いられているが,戦国期に地下(じげ)百姓などと呼ばれたものが,後の百姓に近い社会的存在となっている。…
…すべての土地は,田はもちろん,実際には米を生産しない畠・屋敷地も米の収穫高に換算されて石高がつけられ,いっさいが石高に結ばれる。この結果,石高が社会関係の統一的基準となり,武士階級の身分も,たとえば10万石の大名,2000石の旗本,30石の切米取という形で序列化され,百姓が所持する土地も面積ではなく石高で示され,高持百姓と水呑百姓(無高)に区別される。武士階級の主従関係も,知行石高を基準とする軍役を媒介として成立し,百姓が領主に納入する年貢も,所持石高に応じて課せられるように,近世封建社会の内部は,すべて石高を基準として成り立つような形をとる。…
…地侍はこの村の侍の俗称であり,凡下の上に位置していた。侍はふつう百姓とは別のもの,武士の同義語と考えられがちであるが,〈人夫のことは百姓役なり,百姓の儀においては侍・凡下をいわず,その地につきての役所なり〉(1473年,《大乗院寺社雑事記》)とされたように,村落において領主の耕地をもつかぎり,侍も凡下もともに領主からは百姓とみなされた。 戦国農村の侍には,〈奉公人,物作らず〉(〈河毛文書〉)と〈主をももたず,田畠作らざる侍〉(〈平野荘郷記〉),〈奉公をも仕らず,田畠をもつくらざるもの〉(〈浅野家文書〉)というように,領主を主人にもち軍役をつとめる侍と,主人をもたず軍役をつとめない侍とがあり,村落のなかでは自分では田畠を作らず,とくに前者は夫役などの負担免除の特権を与えられている場合が多かった。…
…江戸時代の社会を構成した主要な身分である武士,百姓,職人,商人を指す言葉。四民ともいう。…
…幕府および多くの藩では,相続に際し家禄を増減せず,そのまま相続させる世禄制をとっていたが,藩によっては相続の際,禄高を減少する世減制や,相続人が幼少もしくは養子であるとき,禄高を削減して相続させる幼少減知制,養子減知制などを採用したところもある。(2)百姓 百姓とくに本百姓の相続は,幕藩財政の基盤をなす貢租の担当者が交替することであったから,同じ庶民である町人の場合よりも領主による干渉,規制が多かったが,その程度は領主により差があった。中には相続人の耕作能力を重視し,領主の許可がなければ相続できないとする藩もあったが,幕府や多くの藩では遺言相続が認められた。…
…他方,西田直二郎の提唱した文化史学の潮流のなかで,中村直勝は文化・思想・経済の大きな転換期としてこの動乱をとらえ,やや異なった観点に立って先の立場を押し出した。この中村の見方は〈転向〉後の清水三男によって受けつがれ,清水は領主の私的な支配下におかれない百姓とその村落に目を注ぎ,中世社会の公的な側面を明らかにしようと試みたのである。 敗戦後,マルクス主義史家のなかで石母田に対してやや批判的立場に立つ松本新八郎は,平泉らとまったく逆の立場から南北朝の動乱を古代と中世とを分かつ画期ととらえ,永原もその見方の影響をうけている。…
…日本近世における被支配諸身分の中で,百姓や諸職人とともに最も主要な身分の一つ。その基本的性格としては,(1)さまざまな商業を営む商人資本であること,(2)都市における家持(いえもち)の地縁的共同体である町(ちよう)の住民であり,正規の構成員であること,(3)国家や領主権力に対して,町人身分としての固有の役負担を負うこと,などがあげられる。…
…禿百姓とも書き,江戸時代,年貢の未進や負債の累積などにより破産した百姓をいう。年貢諸役の過重取立て,商品経済の農村への浸透などによって農村が疲弊し,災害・凶作・飢饉などを契機にして潰百姓が激増した。…
…中世における侍身分の呼称の一つ。平安・鎌倉時代に公家や武家男子の敬称(《入来文書》)や対称(〈北条重時家訓〉)として用いられるが,ひろく中世社会では,村落共同体の基本的な構成員たる住人,村人の最上層を占めて殿原,百姓の順に記され,村落を代表する階層として現れる。名字をもち,殿とか方などの敬称をつけて呼ばれ,〈殿原に仕〉える者をもち(《相良氏法度》),〈地下ノ侍〉(《本福寺由来記》)つまり侍身分の地侍として凡下(ぼんげ)身分と区別され,夫役(ぶやく)などの負担を免除されることもあった。…
…まず代官所において,検地により確定された石高(こくだか)(または面積)を基準とし,その年の作柄を検見(けみ)した結果にもとづいて年貢納入高を決定する。これを小物成,浮役などと一緒に年貢割付状(可納割付(かのうわつぷ),免状ともいう)に記し,村請(むらうけ)の原則に従って村の名主,惣百姓中あてに下付すると,村では農家の所持石高に比例した高割りによって各戸の賦課高を決定する。この内,村の年貢高を決める方法は,時代によって変化している。…
…それ自体差別的な序列体系である。 身分制の編成には,中世以来人々の間にひろまっていた百姓=王孫意識が利用された。王孫という表現の中には,人々には貴賤の序列があるという貴・卑種観念と,人々を結びつけているのは血脈に基礎をおき家父長が絶対的な権力をもつという家父長制的家観念が含まれていた。…
…(1)日本の中世後期,在地領主層や戦国大名のとった欠落(かけおち)者の連れ戻し策。中世後期の社会を通じて広く現れた武家奉公人,百姓,下人などの欠落は,在地領主や土豪の支配や経営の基盤を不安定にしたばかりでなく,逃亡した領民の他領からの連れ戻し問題は,在地領主や土豪相互間の深刻な対立を引き起こす原因ともなった。そのため,室町期の在地領主層は互いに欠落者の拘束と相互返還,つまり人返しを主要な課題として個別に協定を交わしたり,より広く組織的に一揆の契約を結んだりした。…
…中世末期の下剋上の戦乱のなかで,経済的には支配階級に属しながら被支配身分である地侍・名主(みようしゆ)百姓などが分解を遂げ,領主―農奴という近世封建社会の基本的階級関係が確定づけられていくが,支配身分としての武士と,被支配身分としての百姓・町人などが截然と区別され,武士が他のすべての者を支配し,その原則に基づいて秩序づけられる体制が形成されていく過程を指す。百姓はもちろん,武士も古くから存在していた。…
…(1)古代律令制下で位階官職をもたない一般人民をさした語。百姓,公民,良民と同様な意味で用いられた身分呼称であった。《令義解(りようのぎげ)》で〈家人(けにん),奴婢(ぬひ)〉について〈すでに平民に非ず〉といわれているように,賤民である家人や奴婢は平民身分から除外された。…
…江戸初期の成立。天道を知る事,百姓仕置の事など7項目からなる。〈百姓は財の余らぬように不足なきように治むる事道なり〉の文章で著名。…
…日本の近世期,領主権力の基礎として掌握された百姓。17世紀前半期には年貢とともに夫役(ぶやく)を負担した役負(やくおい)百姓をさし,1660~70年代(寛文・延宝期)を境にして高請地(たかうけち)を所持する高持百姓をさすようになる。…
…日本の近世期,農村に居住し,田畑を所持せず,小作地を耕作して独立の生計を立てていた農民。高請地(たかうけち)を所持した高持,本百姓に対して,水呑,無高と呼ばれた。独立の生計を営む点で隷属的農民とも奉公人とも区別される。…
… また,村落社会には支配権力によって人為的に設定された身分階層制も形成された。(1)近世における役家=本百姓体制は,夫役・年貢の公的負担者を本百姓として位置づけ,この本百姓のもとに従属農民(名子,被官,家抱,抱百姓,柄在家などその呼び方はさまざまである)の階層が設けられた。これは,支配権力が本百姓を村落の公式の構成員として承認し,その特権や義務を統治目標に従って規定したものである。…
…1591年(天正19)に豊臣秀吉が全国に発布した3ヵ条の法令。侍,中間(ちゆうげん),小者などの武家奉公人が百姓,町人になること,百姓が耕作を放棄して商いや日雇いに従事すること,もとの主人から逃亡した奉公人を他の武士が召し抱えることなどを禁止し,違反者は〈成敗(死刑)〉に処するとしている。朝鮮出兵(文禄・慶長の役)をひかえて,武家奉公人と年貢の確保を目的としたものと思われる。…
…ややもすれば,武士=領主の賛美に傾きがちとなる領主制理論の欠陥を鋭く突いた重要な指摘であった。今日の学界においては中世農民すなわち平民・百姓の主体性は当然のこととして承認されるに至っている。鈴木の指摘はその先駆をなすものであった。…
※「百姓」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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