…奈良時代の武人。壬申の乱で,近江朝廷側の将軍として勇名を馳せた果安(はたやす)の子。724年(神亀1)に起こった蝦夷の反乱の鎮定に派遣されて以来,しばらく奥羽の蝦夷勢力の制圧に活躍する。729年(天平1)陸奥鎮守将軍の任にあり,734年には陸奥按察使(あぜち)として,出羽国の男勝(おかち)村を征して,陸奥国の多賀城から出羽柵(でわのさく)に至る直通道路を開くことを建言。みずから6000の兵を率いて遠征を行い,出羽の蝦夷を帰順させて,道路を開くことに成功した。…
…この報に接した大海人皇子は攻勢を開始し,第1隊を伊勢をこえて大和へ向かわせ,第2隊は高市皇子を将として近江へ直進させた。大和では大伴吹負が河内から攻撃してきた近江方の軍勢に手をさかれて近江方の大野果安に一時期,飛鳥付近まで攻めこまれることがあったが,河内方面の近江軍をくいとめるとともに陣営をたてなおし,また美濃からの援軍も到着するにおよんで,近江方の軍隊は大和でも勝機を得ることができなかった。近江大津宮へ進撃した高市皇子は,犬上川付近でまず近江軍を破り,さらに安河(野洲川)でも大友皇子方の軍隊をうち破って勝利を決定的なものとした。…
※「大野果安」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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