大野果安(読み)おおののはたやす

朝日日本歴史人物事典 「大野果安」の解説

大野果安

生年生没年不詳
壬申の乱(672)の近江方の武将。関東の雄族毛野氏と同族。姓は君。天武13(684)年の八色の改姓朝臣。東人の父。天武1年7月4日,大海人皇子(のちの天武天皇)側の将軍大伴吹負と,吹負が陣をしく乃楽山(奈良市北方の丘陵)で戦い,これを撃破した。さらに吹負軍を追って八口(橿原市の香具山付近)に至ったが,京(倭京)を眺めると,街ごとに楯が立ててあったので,伏兵がいることを恐れて引き返した。『続日本紀』天平14年11月条の東人の薨伝には,果安は「飛鳥朝廷糺職大夫直広肆」(弾正台の長官,従五位下)とみえる。

(狩野久)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「大野果安」の解説

大野果安 おおのの-はたやす

?-? 飛鳥(あすか)時代の武人,官吏
大野東人(あずまひと)の父。壬申(じんしん)の乱(672)では,近江(おうみ)朝廷軍の将として,大海人(おおあまの)皇子側の大伴吹負(おおともの-ふけい)を大和(奈良県)乃楽(なら)山でやぶった。乱後,天武朝では糾職大夫(きゅうしきだいぶ)をつとめた。

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世界大百科事典(旧版)内の大野果安の言及

【大野東人】より

…奈良時代の武人。壬申の乱で,近江朝廷側の将軍として勇名を馳せた果安(はたやす)の子。724年(神亀1)に起こった蝦夷の反乱の鎮定に派遣されて以来,しばらく奥羽の蝦夷勢力の制圧に活躍する。729年(天平1)陸奥鎮守将軍の任にあり,734年には陸奥按察使(あぜち)として,出羽国の男勝(おかち)村を征して,陸奥国の多賀城から出羽柵(でわのさく)に至る直通道路を開くことを建言。みずから6000の兵を率いて遠征を行い,出羽の蝦夷を帰順させて,道路を開くことに成功した。…

【壬申の乱】より

…この報に接した大海人皇子は攻勢を開始し,第1隊を伊勢をこえて大和へ向かわせ,第2隊は高市皇子を将として近江へ直進させた。大和では大伴吹負が河内から攻撃してきた近江方の軍勢に手をさかれて近江方の大野果安に一時期,飛鳥付近まで攻めこまれることがあったが,河内方面の近江軍をくいとめるとともに陣営をたてなおし,また美濃からの援軍も到着するにおよんで,近江方の軍隊は大和でも勝機を得ることができなかった。近江大津宮へ進撃した高市皇子は,犬上川付近でまず近江軍を破り,さらに安河(野洲川)でも大友皇子方の軍隊をうち破って勝利を決定的なものとした。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」