日本歴史地名大系 「安下庄・安下庄浦」の解説
安下庄・安下庄浦
あげのしよう・あげのしよううら
安下庄の名は延応元年(一二三九)一二月二五日付の四条天皇宣旨(門葉記)に「周防国安下庄」とみえるのが早く、中世前期は
慶長一五年(一六一〇)の検地帳には「安下庄」、元禄一二年(一六九九)の郷帳に安下庄村と記される。「注進案」では地方を安下庄、浦方を安下庄浦としている。地名は「延喜元年菅丞相筑紫江御下向之節、風波起り当地江御繋船被遊、当所之在名御尋有之所甲ノ荘と答けれバ、庄ニ甲ヲ戴テハ不繁昌ならん今より安下庄と改むべしと仰有り」(注進案)によるといい、また嵩山の麓で海に対して陸、すなわち「アゲ」のことともいう。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報