橘町(読み)たちばなちよう

日本歴史地名大系 「橘町」の解説

橘町
たちばなちよう

[現在地名]中区橘一―二丁目・松原まつばら三丁目

熱田へ通じるほん町筋の木戸内南端に位置し、北は門前もんぜん町、南は古渡ふるわたり村に接する。金塚かなづか町筋と茶屋ちやや町筋との間の四丁をさす。ただし名古屋新田・古渡村日置ひおき村・前津小林まえづこばやし村の土地が複雑に入組み、町境はわかりにくい(尾張志)。二代藩主徳川光友は名古屋南部の開発を計画し、寛文二年(一六六二)から同四年にかけて当地に広く広がる千本松原せんぼんまつばらという地を切開き町地を造成。

橘町
たちばなちよう

下京区松原通油小路西入

東西に通る松原通(旧五条大路)を挟む両側町で、中央を南北にさめ通が通る。町の西側は堀川ほりかわ(旧堀川小路)にも面する。

平安京の条坊では左京五条二坊三保一二町南側及び同六条二坊四保九町北側、平安中期以降は町の西端が五条堀川小路にあたる。「中右記」長治二年(一一〇五)八月三〇日条に、「夜半許有焼亡、五条南堀川東小屋」とみえ、当町西側付近にあった民家が焼亡している。

橘町
たちばなまち

[現在地名]西区しん町二―三丁目

小浜こはま町の西にあり、東西に延びる両側町。もと白髪山両裏櫂屋しらがやまりよううらかいや町の一部であった(初発言上候帳面写)。明暦元年(一六五五)の大坂三郷町絵図には東から一町が「わたや町」、二町分が「白髪町裏町」と記されるが、元禄期(一六八八―一七〇四)以後の絵図ではそれらを併せて橘町となっている。大坂三郷南組に属し、同一三年の三郷水帳寄帳では屋敷数二六・役数四三役で、うち年寄分一役が無役。年寄は伊丹屋吉兵衛。当町から西隣出口でぐち町にかけては鰹座かつおざと通称され多くの鰹節問屋が集まっていた。「摂津名所図会大成」には「此堅魚を諸国にて乾魚に製し此地に運送をなすがゆへに、凡三町許の間鰹節の市店軒をつらね、日毎に交易繁く、或は表通りに出して所狭までに乾ならべ、又ハ裏にて磨くあり、進物の誂とて清かなる筥に詰るあり、又ハ藁にて編て飾るあり、此方にハ蔵に納め、彼方にハ樽につめ、京江戸および諸国へおくる数十家の鰹屋四時ともに終日斯の如し」と記される。

橘町
たちばなちよう

面積:二九・三九平方キロ

屋代やしろ島のほぼ中央に位置する。町の北西には嘉納かのう(六八四・九メートル)だけ(六一八・五メートル)、西に源明げんめい(六二四・七メートル)があり、それらの山腹、山麓に広がる。嵩山からの眺望はよく、瀬戸内海国立公園の一部。山麓が海岸まで延び、その間のわずかな平地に集落が点在する。町を走る主要道路は屋代島の海岸線を一周。

橘町
たちばなちよう

[現在地名]伊丹市北本町きたほんまち一丁目

伊丹町を構成する二七ヵ町の一つで立花町とも(有岡古続語)綿屋わたや町の東に位置し、有岡ありおか城下時代は侍町北縁であった。正徳年間(一七一一―一六)成立(文禄伊丹之図)文禄伊丹之図や寛文九年(一六六九)の伊丹郷町絵図は、天正年間(一五七三―九二)創建とされる万徳まんとく寺のみを描いている。同寺の表門前の南北通りをうなぎ町といい(有岡古続語)、寛文―元禄(一六六一―一七〇四)頃までは鰻町ともよんだという(「正心調法記」武田家文書)。屋敷・田畑合せて二町四畝二五歩。

橘町
たちばなちよう

下京区下珠数屋町通東洞院西入

南北に通る下珠数屋町しもじゆずやまち通を挟む両側町。町の西側は不明門あけず通、東側は東洞院ひがしのとういん(旧東洞院大路)にも面する。近世には烏丸からすま通まで同町に属する人家があったが、明治四五年(一九一二)烏丸通拡張により不明門通以西の人家が取払われた。

町の形成は慶長七年(一六〇二)以降のことと思われる。「京雀跡追」(延宝六年刊)には、「じゆすや(珠数屋) 東本願寺門前町」と記す。現在でも東本願寺門前は仏具などを扱う店が多いが、特に橘町には法衣・仏具商が軒を並べる。承応二年(一六五三)新改洛陽並洛外之図に、「下珠数や丁」と記す。

橘町
たちばなちよう

中京区堺町通竹屋町上ル

南北に通る堺町さかいまち通の両側町で、南は竹屋町たけやまち(旧大炊御門大路)

平安京の条坊では左京二条四坊一保七町の地にあたる。

平安時代前期には「帝王編年記」に「冷泉院(中略)天暦四年庚戌五月二十三日辛酉子時誕生於藤原遠規宅春日ノ南高倉ノ東」とあり、この地辺りに藤原遠規邸のあったことがわかる。平安時代末には、左大臣藤原頼長の邸があった(台記別記)。「台記」康治三年(一一四四)正月二六日条には、「仁和寺法親王問云春日ノ南高蔵ノ東有小社余宅乾其名何。余答曰号火御子」とあり、この地辺りに火御子の社が存在したことがわかる。

橘町
たちばなちよう

[現在地名]東山区東橘町・西橘町

問屋町といやまち通に位置。北は上人しようにん町、西は鴨川。

地誌では寛文五年(一六六五)刊「京雀」、地図では承応二年(一六五三)新改洛陽並洛外之図に出るのが早い。既に宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」問屋町通の項に「同(五条)下ル三町目 橘町 西側東側二町に分る」とあり、天保二年(一八三一)刊「京都巡覧記」にも「立花町」と出て「東かハ」「西かハ」の注記をみるから、東と西の分町は江戸時代と思われる。「京都府地誌」には、明瞭に東橘町、西橘町として出る。

橘町
たちばなちよう

中京区押小路通御幸町西入

東西に通る押小路おしこうじ通を挟む両側町。町の中央を南北に麩屋町ふやちよう通・富小路とみのこうじ通が通る。

平安京の条坊では、町の北側が左京三条四坊四保九町・一六町南、南側が同一〇町・一五町北の地。平安中期以降は押小路富小路の東西にあたる。平安時代、町の南西の地は藤原定方の邸中西殿、南東の地は藤原永頼の邸山井殿の地にあたる(拾芥抄)

町名は、寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「たちはな丁」とあり、以降「立花丁」と記す場合もあるが、変化はない。寛文五年(一六六五)刊「京雀」は「此町古しへけいせいや(傾城屋)の侍へりしを、六条三筋町に引うつさる、花の立のきたれはとて、立花町と名つけしとにや」と記す。

橘町
たちばなまち

[現在地名]岩内郡岩内町字大和やまと・字清住きよずみ

明治初年(同二年八月―九年の間)から同三三年(一九〇〇)まで存続した町。岩内市街の中央部やや西寄りに位置する。明治九年の大小区画沿革表に橘町とある。この大小区画に際して設置された町で、貸座敷・料亭・商家が建並ぶ繁華街として栄えていたという(「殖民公報」第一三号)。同一一年札幌警察署岩内分署(同一四年に移転)、同一二年に岩内古宇ふるう二郡役所(同一五年に移転)などが設置され、行政の中心となった。同二一年の戸数一八五・人口八三四、同二四年の宅地は五町八反余・畑二一町八反余(岩内古宇二郡誌)

橘町
たちばなちよう

下京区御幸町通仏光寺下ル

南北に通る御幸町ごこまち通を挟む両側町。

平安京の条坊では左京五条四坊三保一四町、平安中期以降は五条坊門京極大路西の地。

寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「五条立花町」、寛永一八年以前平安城町並図には「立花町」、宝永二年(一七〇五)洛中洛外絵図に「橘丁」とあって以後変化はない。もと、町の西側には京極川の支流藍染あいぞめ川の跡と思われる低地があったが、江戸時代中頃には埋没したという(坊目誌)

橘町
たちばなちよう

上京区智恵光院通笹屋町下ル

南北に智恵光院ちえこういん通が通る。

寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「たち花丁」、寛永以後万治以前京都全図に「立花町」、宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」には「橘町」と記す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の橘町の言及

【阿南[市]】より

…徳島県東部,紀伊水道に面する市。1958年富岡町と南の橘町が合体,市制。人口5万7666(1995)。…

※「橘町」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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