富樫泰高(読み)とがし・やすたか

朝日日本歴史人物事典 「富樫泰高」の解説

富樫泰高

生年生没年不詳
室町時代武将。満春の3男。嘉吉1(1441)年6月,将軍足利義教の怒りに触れて出奔した兄教家に代わって富樫家の家督となる。6日後義教が暗殺されると,教家より家督の返還を求められたが,細川持之は泰高を支持。翌年,持之が死去し畠山持国が管領になると,教家が加賀守護に任ぜられたため争いとなり,このときは泰高派が敗れた。しかし文安2(1445)年に管領となった細川勝元が泰高を守護としたことで再び戦闘となり,ついに教家・成春父子は越中に逃れた。これはいわば畠山氏と細川氏の代理戦争であった。同4年文安の土一揆が起こり,衝突寸前の畠山・細川両氏に和睦が図られると両富樫氏の間にも和睦が成り,以後は加賀を二分し,泰高は守護として南加賀を治めることになった。寛正5(1464)年隠居して成春の子政親に家督を譲るが,長享2(1488)年の一向一揆で政親が自害すると,一揆衆に擁立されて再び守護職に復帰。永正1(1504)年前後に死去するが,その立場は一貫して細川氏に支持された。

(石田晴男)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「富樫泰高」の意味・わかりやすい解説

富樫泰高
とがしやすたか

室町時代の武将。満春の子。初め三宝院の喝食 (かっしき) であったが,将軍足利義教に認められ,兄教家に代って加賀守護となった。文安4 (1447) 年教家の子成春と約し,成春は北加賀,泰高は南加賀の守護となった。のち一向一揆に擁立され,成春の子政親と争い,石川郡高尾城に政親を滅ぼしたが,自身も国人層に攻められて,長享年間 (87~89) 加賀で自刃したらしい。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「富樫泰高」の解説

富樫泰高 とがし-やすたか

?-? 室町時代の武将。
嘉吉(かきつ)元年兄の富樫教家(のりいえ)が将軍足利義教(よしのり)に追われたあとをうけ加賀守護となる。教家,その子成春(しげはる)とあらそうが,文安4年加賀北半国を成春に,ついで南半国を成春の子政親(まさちか)にゆずる。長享2年(1488)政親が一向一揆(いっき)でほろぶと守護に復帰するが,のち国人に攻められ自刃(じじん)。名は安高ともかく。

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