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一向一揆 いっこういっき

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

一向一揆
いっこういっき

室町時代中期以降,特に応仁・文明の大乱 (→応仁の乱 ) 以降,1世紀にわたって頻発した一向宗門徒の一揆をいう。一向一揆は寛正年間 (1460~66) にすでに散見され,本願寺第8世蓮如の出現によって,荘園制の崩壊に伴って起った在地地侍,国人,名主を中心とする惣 (そう) 村的結合のもとに,一向宗の教団組織の強化が進められ,守護大名の領国支配と対立した。

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デジタル大辞泉の解説

いっこう‐いっき〔イツカウ‐〕【一向一×揆】

室町・戦国時代に近畿・北陸・東海地方に起こった一向宗浄土真宗)門徒の一揆。僧侶、門徒の農民を中心に、名主地侍が連合して、守護大名荘園領主と戦った。加賀一揆のように一国を支配したものもあったが、天正8年(1580)の石山本願寺に対する織田信長石山合戦を最後に幕を閉じた。

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百科事典マイペディアの解説

一向一揆【いっこういっき】

15−16世紀浄土真宗(一向宗)門徒が起こした一揆。1488年加賀守護富樫(とがし)氏を倒し90余年加賀一国を支配した加賀一向一揆や,徳川家康織田信長と戦った三河一向一揆,伊勢長島一揆石山本願寺の一揆などが有名。
→関連項目朝倉義景石山合戦一揆大野荘(石川)尾山加賀国毫接寺小松[市]勝興寺瑞泉寺善徳寺土一揆坪江荘富樫氏富樫政親富山[県]長島[町]福井[県]細川晴元本多正信吉崎

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世界大百科事典 第2版の解説

いっこういっき【一向一揆】

浄土真宗(真宗ともいう)本願寺派の坊主や農民,商工業者,武士などの門徒が主導し,あるいは門徒が他の勢力と結んだり,本願寺法主に動員されたりしておこした武装蜂起,闘争の総称。1466年(文正1)から1582年(天正10)に至る約120年間にわたって,近畿,北陸,東海などの諸地域で起き,室町末~戦国時代の政治史の中で,重要な役割を果たした。真宗門徒の中には,当時一向衆と呼ばれた時宗(衆)の門徒が大量になだれこんでいたので,真宗をも一向宗と呼ぶようになったため,その名がある。

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大辞林 第三版の解説

いっこういっき【一向一揆】

室町・戦国時代、北陸・近畿・東海などの各地に起こった宗教一揆。真宗本願寺派の一向宗の僧侶や門徒の農民たちが連合して守護大名・戦国大名などの領国支配に反抗した。特に約九〇年間一国を支配した加賀の一向一揆が有名。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

一向一揆
いっこういっき

室町中期から戦国時代にかけて起きた一向宗(東西分派以前の真宗本願寺派(しんしゅうほんがんじは))信者の、教団組織を利用した武装蜂起(ほうき)。1465年(寛正6)の近江(おうみ)金森一揆(かながもりいっき)が最初で、1580年(天正8)の石山本願寺の陥落を最後とするが、一揆の性格により3段階に分けて把握できる。第1段階は15世紀末までの北陸を中心とした教団組織の形成期で、延暦寺(えんりゃくじ)による一向宗弾圧に抵抗して蜂起した護教的な金森一揆に始まる。1474年(文明6)越前(えちぜん)吉崎(よしざき)(福井県あわら市)にあった本願寺蓮如(れんにょ)の指令で、加賀守護富樫(とがし)家の家督争いに介入し、政親(まさちか)を支援して弟幸千代(こうちよ)を倒した加賀一揆(文明一揆(ぶんめいいっき))、1481年国人(こくじん)領主石黒氏を倒した越中礪波郡一揆(えっちゅうとなみぐんいっき)、1487年(長享1)に守護政親の重課と一向宗弾圧に反対して蜂起し、翌年6月に政親を滅ぼした加賀の国一揆(くにいっき)的一向一揆(長享一揆(ちょうきょういっき))である。とくに守護を打倒した加賀では、名目上の守護に富樫一族を擁立し、1530年代からは本願寺法主(ほっす)を主君と仰ぎ、一家衆(いっけしゅう)三か寺、「郡」とその下部の「組」という二重の「一揆」(在地領主連合)による一国支配を、1580年(天正8)まで維持した。なお1485年(文明17)に飛騨一揆(ひだいっき)が内ヶ島氏と戦ったと伝えられる。
 第2段階は16世紀前半、本願寺が一つの政治勢力としての地位を確定した時期である。1506年(永正3)管領(かんれい)細川政元(ほそかわまさもと)派となった本願寺実如(じつにょ)の命令により、政元の反対派の越前朝倉(あさくら)、越中畠山(はたけやま)、越後(えちご)上杉(うえすぎ)氏らに対する畿内(きない)、北陸の大一揆が蜂起した。越中一揆は越後守護代長尾能景(ながおよしかげ)を戦死させ、越中西部を加賀と同じく「一揆」支配下に置いた(永正一揆(えいしょういっき))。1531年(享禄4)加賀に権力争いが起こり、本願寺方の大一揆と一家衆本泉寺(ほんせんじ)、松岡寺(しょうこうじ)、光教寺の三か寺方の小一揆が戦い、大一揆が勝利した(大小一揆)。1532年(天文1)畿内の門徒は本願寺証如(しょうにょ)の指令で蜂起し、堺(さかい)に三好元長(みよしもとなが)を攻めて自殺させた。これは外護者(げごしゃ)細川晴元(はるもと)の反対派打倒作戦であった。しかし一揆の力を恐れた晴元が反本願寺に転ずると、畿内門徒の一揆は急速に拡大し、大和(やまと)、河内(かわち)、摂津、和泉(いずみ)、近江などで晴元勢や法華一揆(ほっけいっき)と戦った。初めは晴元を堺から追い出すなど一揆方が優勢であったが、法華一揆に山科本願寺(やましなほんがんじ)を焼かれ、再起した晴元の反撃でしだいに守勢となった。摂津石山(いしやま)(大阪市)に移った本願寺もしばしば晴元勢の攻撃を受けるに至り、1535年に講和が結ばれた。二度の大一揆によって畿内の一大政治勢力としての本願寺の地位は確定した。
 第3段階は、16世紀の織田信長との対決、一揆の終結期である。すでに1562年(永禄5)に信長の同盟者となった徳川家康は、1563年に三河一揆と戦っている。一揆は、家康による地方大坊主の寺内不入権侵害に抵抗して蜂起し、家臣団も二分して翌年2月まで激しい戦闘を続けたが、門徒の武士と農民の離間に成功した家康に屈服した。1568年に足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて上洛(じょうらく)した信長を「法敵」として、本願寺顕如(けんにょ)は1570年(元亀1)に全国門徒に総決起を指令した。いわゆる石山戦争の開始である。本願寺は武田、朝倉、浅井、六角(ろっかく)、ついで毛利、上杉、荒木ら反信長派大名と結ぶとともに、畿内、東海、北陸での一揆の蜂起によって信長包囲網を形成した。信長は本願寺とは名目的講和を繰り返す一方で、各地一揆の各個撃破を進めた。近江一揆は六角、浅井氏と連携して各地で信長軍と戦ったが、両氏の滅亡とともに瓦解(がかい)した。長島願証寺(がんしょうじ)を中心とした尾張(おわり)、美濃(みの)、伊勢(いせ)の一揆は、信長の弟信興(のぶおき)を攻めて自殺させるなど強大であったが、三度にわたる信長の攻撃で1574年(天正2)壊滅した。越前では信長家臣の勢力争いに乗じて一揆が起こり、加賀一揆の来援を受けて1572年(元亀3)1月に信長家臣を倒して一国支配を実現した。しかし1575年(天正3)8月に総攻撃を受けて壊滅し、加賀南半も信長軍に占領された。紀伊(きい)の雑賀(さいか)五郷の一揆は紀州惣国一揆(そうこくいっき)の一翼で、1577年にいったん信長に屈服したが、反信長派の2郷は再起して多量の鉄砲と水軍で本願寺を支えた。一方、1576年より籠城(ろうじょう)に追い込まれた本願寺は、畿内門徒と毛利氏の援助でしばしば信長軍を破ったが、各地一揆の敗北と毛利の後退で戦力は低下し、ついに1580年3月に講和を結んだ。顕如は紀州鷺森(さぎのもり)(和歌山市)に退去、講和に反対した教如(きょうにょ)も8月には退出し、石山戦争の終結とともに一向一揆は終結した。
 一向一揆を蜂起の原因からみると次のように分類できる。すなわち信仰擁護のためのもの、地域で多数派化した門徒が非門徒とも連合して地域または一国の支配権獲得を目ざした国一揆的性格の強いもの、「門跡領主」本願寺の軍事力として動員されたもの、天下統一を目ざす信長との対決などである。いずれの場合も根底には信仰の擁護とともに、重層的な土地所有体制を最大限に利用して、負担の軽減を図った小領主と農民の強い要求があった。それに本願寺法主を主君と仰ぐ国人層の地域支配要求が重なって強大な軍事力となり、本願寺をして戦国時代の一大政治勢力に押し上げ、戦国大名とは異なる封建支配の体制を形成したといえる。それゆえに剰余の一元的収奪体制の構築を図る戦国大名、その覇者としての信長との対決は不可避であったのである。[新行紀一]
『笠原一男著『一向一揆の研究』(1962・山川出版社) ▽笠原一男著『一向一揆――その行動と思想』(1970・評論社) ▽井上鋭夫著『一向一揆の研究』(1968・吉川弘文館) ▽重松明久著『中世真宗思想の研究』(1973・吉川弘文館) ▽新行紀一著『一向一揆の基礎構造』(1975・吉川弘文館) ▽北西弘著『一向一揆の研究』(1981・春秋社)』

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世界大百科事典内の一向一揆の言及

【安土桃山時代】より

… (1)は中村吉治に代表される見解で,貨幣経済の進展によって解体しかかった中世封建制が,戦国期から織豊政権にかけて,大名領知制の確立や検地,身分統制の強化などによって再編強化され,近世封建制が成立したというものである。(2)は藤田五郎に代表される見解で,夫役経営(労働地代)を基本とする中世の農奴制的封建社会が,土一揆,一向一揆の過程を通じて,本百姓=隷農による小農民経営が成立し,生産物地代を中心とする,より純粋化した形の封建社会が成立したというものである。(3)は服部之総に代表される見解で,土一揆,一向一揆に代表される民衆の闘いと,倭寇から朱印船貿易にみられる海外発展は,あたかもヨーロッパの初期絶対主義時代に相当するという見解である。…

【石山本願寺一揆】より

…1570年(元亀1)から80年(天正8)まで織田信長と戦った一向一揆。石山合戦ともいうが,本願寺の所在地摂津国石山で11年間絶えまなく戦闘があったわけではない。…

【越前国】より

…敏景の越前平定と軌を一にして,71年京都を追われた本願寺8世蓮如は坂井郡吉崎に坊舎を建立して布教を始めると,北陸一帯に急激に門徒が増加し,一向宗教団を形成していった。これが一向一揆の母体となる。越前から放逐された反朝倉勢力はこれら一向一揆と結んでしばしば越前侵攻を試みたが,敏景に続く氏景,貞景の時代はよくこれを撃退して,朝倉の領国支配を維持した。…

【織田信長】より

…そして将軍のため二条城を造営する一方,殿中掟・事書五箇条を定めて将軍権力を牽制し,70年(元亀1)浅井・朝倉軍を近江姉川の戦に破り,ついで河内に進出したところ石山の本願寺顕如が決起して浅井・朝倉軍に呼応したため退却し,天皇の権威をかりて講和した。ついで将軍の失政を責め,73年(天正1)ついに幕府を倒し,宿敵浅井・朝倉両氏を滅ぼし,翌年伊勢長島の一向一揆を鎮圧,75年には三河長篠の戦に武田勝頼の精鋭を破って鉄砲隊の威力を示し,また丹波・丹後の征服を開始,8月越前の一向一揆を鎮定し,柴田勝家ら直属部将を分封,国掟を与えて専制支配の姿勢を明らかにした。そして濃尾両国を嫡子信忠に譲り,76年近江に安土城を築き,77年羽柴秀吉に西国征伐を命じた。…

【加賀一向一揆】より

…このような状況下74‐75年一部守護勢と一向衆とは,国人層,百姓層,寺社勢力をも糾合し,それぞれの反対勢力打倒の一揆(惣国一揆)をおこした。この文明一揆は主体に一向衆を含む点で,北陸最初の一向一揆ともなった。新守護富樫政親に与同の国人層は,そのとき連合組織〈郡〉を結成した。…

【戦国時代】より

… 第3の特徴は,民衆のさまざまな形をとった反権力的動向の活発化である。これも下剋上的社会動向の一面にほかならないが,とりわけ一向一揆に代表される民衆の動向は,大名権力の存亡にかかわるほどに巨大な力をもち,その鎮圧・解体が織豊統一政権成立の基本的条件であった。したがってそれは単なる下剋上的風潮の問題というより,激しい階級闘争の展開として注目する必要があろう。…

【被差別部落】より


[信仰と伝承]
 被差別部落の信仰という点では,真宗(浄土真宗)ならびに白山信仰との密接な関係があげられる。中世の末期から近世の初頭にかけての一向一揆においては,各地で少なからぬ被差別民がこれに深く関与していた。事例はあまり多くはなく,また地域も限られてはいるが,近畿で一向一揆の拠点になった集落であることが明確なところが,現代の被差別部落に重なっている事実も,近年の研究で明らかになっている。…

【法華一揆】より

…1532‐36年(天文1‐5)日蓮宗の京都町衆信者(町衆)が中心となって起こした一揆。一向一揆との対比で名付けられた呼称。戦国時代の京都の町屋地域は〈題目の巷(ちまた)〉といわれたほど,日蓮宗が町衆社会に盛行し,洛中には二十一本山と呼ばれた日蓮宗の大寺が栄えた。…

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