日本歴史地名大系 「尾八重谷村」の解説 尾八重谷村おはえだにむら 宮崎県:西都市尾八重谷村[現在地名]西都市尾八重(おはえ)岩井谷(いわいだに)村の北西、一ッ瀬川支流尾八重川の流域山間部にある。北東は中之又谷(なかのまただに)村(現木城町)、東は登内谷(のぼりうちだに)村・銀鏡谷(しろみだに)村。米良(めら)山のうちで、尾八重は雄八重とも書いた。「日向記」によれば文明一六年(一四八四)一一月櫛間(くしま)(現串間市)伊作久逸の要請にこたえて飫肥(おび)の新納忠続攻撃のために出征した伊東祐国の軍勢のうちに「雄八重」の衆も含まれていた。天文二年(一五三三)伊東祐武が家督争いに敗れて甥の伊東祐清(義祐)に殺害されると、祐武の子左兵衛佐は米良山を頼りとして平野(ひらの)へ退去した。左兵衛佐が頼った米良山とは米良石見守を中心とする「山裏ノ一揆」の面々で、同一揆には雄八重の人々も結集していた。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by