朝日日本歴史人物事典 「上井覚兼」の解説
上井覚兼
生年:天文14.2.11(1545.3.23)
戦国・安土桃山時代の武将。薩摩永吉郷(鹿児島県吹上町)地頭上井薫兼の子。母は肝付兼固の娘。初名為兼,神五郎,神左衛門と称す。官は伊勢守。大隅姶良郡上井(鹿児島県国分市)の国人で,父の代に永吉郷に移り,元服して島津貴久に仕えた。大隅廻城の初陣以下,諸方に出陣して軍功を重ね,天正1(1573)年島津義久の奏者となり鹿児島に居住。義久の信任を得て同4年には老中職に抜擢され伊勢守覚兼と称す。同8年8月には日向宮崎城主となり義久の末弟家久を補佐する傍ら,本家鹿児島の枢機にも参じた。以後肥後(熊本県),肥前(佐賀県,長崎県)にも出陣し,同14年7月筑前(福岡県)岩屋の戦いには矢石を冒して奮戦負傷,10月には豊後(大分県)に入って大友氏を攻めたが,翌年3月,豊臣秀吉の西下にあい撤退。羽柴秀長に下って薩摩伊集院に出家隠棲,一超宗咄と名乗った。『上井覚兼日記』は当時珍しい武人の記録で,戦国末期の南九州の動静を知る重要資料。
(今谷明)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報