日本歴史地名大系 「西都市」の解説 西都市さいとし 面積:四三八・五六平方キロ県のほぼ中央部に位置し、北は東臼杵郡南郷(なんごう)村・椎葉(しいば)村、西は児湯(こゆ)郡西米良(にしめら)村、南は東諸県(ひがしもろかた)郡国富(くにとみ)町、宮崎郡佐土原(さどわら)町、東は児湯郡新富(しんとみ)町・高鍋(たかなべ)町・木城(きじよう)町に接する。北部や西部は樋口(ひぐち)山(一四三四・六メートル)や掃部(かもん)岳(一二二三・四メートル)などを擁する山岳地帯で、そこを水源とする一ッ瀬川や、その支流である三財(さんざい)川・三納(みのう)川などの流域に水田が広がる。また河川に沿って茶臼原(ちやうすばる)・西都原(さいとばる)・都於郡(とのこおり)などの台地がある。全体として平野部は少なく、市街地は西都原台地と一ッ瀬川に挟まれた平地にある。東部を流れる一ッ瀬川とほぼ並行するように国道二一九号が通る。なお市名は斎殿原(さいとのばる)(西都農原)からとった。〔原始・古代〕旧石器時代にさかのぼる遺跡の調査例はないものの諏訪(すわ)・権現(ごんげん)・丸山(まるやま)・宝財原(ほうざいばる)等でナイフ形石器・尖頭器・細石核が表採されている。縄文時代の遺跡は原口(はらぐち)遺跡・串木(くしき)第二遺跡・中原(なかはら)遺跡・西都原地区遺跡等で早期の土器を伴い集石遺構が検出された。銀鏡(しろみ)地区上原(かんばる)遺跡では早期以降各時期の土器が出土、中心となるのは後期から晩期にかけての時期で、磨消縄文系の土器が多量に出土している。弥生時代の遺跡には寺原(てらばる)第一・第四遺跡、下尾筋(しもおすじ)遺跡・松本原(まつもとばる)遺跡・西都原地区遺跡・新立(しんたて)遺跡等がある。松本原遺跡では二重のV字溝を伴う中期から後期の集落が調査され、瀬戸内系の土器が多く出土し注目された。西都原地区遺跡では中期の竪穴住居跡が検出され、古墳群形成前の西都原台地の状況が垣間みられた。寺原第一・第四遺跡では後期後半の間仕切り住居が検出され、新立遺跡では終末期から古墳時代初頭の集落が調査されている。古墳時代には市域の台地や丘陵上に国指定特別史跡の西都原古墳群をはじめ茶臼原古墳群、三財古墳群(昭和一一年に三財村古墳の名称で県の史跡に指定)、三納古墳群(昭和一〇年に三納村古墳の名称で県の史跡に指定)、清水(きよみず)・西原(にしばる)古墳群(昭和九年に妻町清水・西原古墳の名称で県の史跡に指定)、穂北(ほきた)横穴墓群(昭和一九年に上穂北村古墳の名称で県の史跡に指定)、都於郡(とのおこり)村古墳(円墳一基、昭和八年に県の史跡に指定)など多くの古墳群が形成された。計約六五〇基の高塚古墳に加えて横穴墓や地下式横穴墓も数多く存在し、一大古墳地帯となっており、西都原古墳群の男狭穂(おさほ)塚・女狭穂(めさほ)塚の両古墳は九州最大の規模を誇る。当市をはじめとして県内に分布する古墳からは鉄製甲冑や蛇行剣・二段逆刺鉄鏃など畿内色の強い遺物が多く出土しており、畿内との関係の強さを物語っている。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「西都市」の意味・わかりやすい解説 西都〔市〕さいと 宮崎県中部,宮崎平野西部から九州山地の前山にある市。 1958年西都町と三納,都於郡の2村が合体して市制。 62年三財,東米良の2村を編入。中心市街地の妻 (つま) は一ツ瀬川の中流域を占め,古代は日向国の中心地で国府,国分寺がおかれ,中世は伊東氏の城下町が形成された。江戸時代には妻,上穂北は天領,東米良,三財地区寒川は人吉藩領,ほかは佐土原藩領であった。市域の東部は一ツ瀬川本・支流がつくる狭い沖積平野で水田地帯,その西部は洪積台地でピーマン,キュウリなどの施設園芸が行われる。西部は国見山 (1036m) ,掃部岳 (1223m) などがそびえる山岳地帯。一ツ瀬川には県内最大規模の一ツ瀬水力発電所と杉安水力発電所がある。西都原古墳群 (特別史跡) をはじめ,千畑古墳,松本塚古墳,新田原古墳群,茶臼原古墳群,常心塚古墳 (以上史跡) などの遺跡に富む。上穂北と妻のクスはともに天然記念物。重要無形民俗文化財の米良神楽を伝える。西都原杉安峡県立自然公園に属し,国道 219号線が通じる。面積 438.79km2。人口 2万8610(2020)。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by