島津破・島津院
しまづのは・しまづいん
建久図田帳には島津庄一円庄のうちに「嶋津破三百丁」がみえ、諸県郡内にあり地頭は島津忠久であった。また建久図田帳(長谷場文書)には「嶋津破三百丁」のほかに、島津庄日向方本庄分田数事として「島津院百二丁八反十中」が記される。島津破・島津院とも大淀川西岸の沖水川と年見川流域、現郡元町・下川東・上川東一帯から東方の現三股町西部・高城町南部にかけての地域に比定される。地元の伝承では島津庄地頭に補任された島津忠久は、まず薩摩国出水郡山門院(現鹿児島県高尾野町など)へ下向したのち庄内に移り、館(祝吉御所)を造営し、稲荷社(島津稲荷)を建立したという。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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