百科事典マイペディア 「島津忠久」の意味・わかりやすい解説
島津忠久【しまづただひさ】
→関連項目島津荘|禰寝院
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鎌倉初期の武将。島津氏の初代。「島津家譜」などの系図類によれば、源頼朝(よりとも)の庶長子、母は比企能員(ひきよしかず)の妹丹後局(たんごのつぼね)で、近衛(このえ)家の家司(けいし)惟宗(これむね)広言の養子とするが疑問。近衛家の家司出自説が有力である。生年については1179年(治承3)説があるが不詳。姓は惟宗、のち藤原とも称した。1185年(文治1)6月、伊勢国(いせのくに)須可荘(すかのしょう)・波出御厨地頭職(はでのみくりやじとうしき)に補任(ぶにん)、以降、島津荘下司職(げししき)・信濃国(しなののくに)塩田荘(しおだのしょう)地頭職に補任された。89年7月の奥州藤原氏征伐に従軍。97年(建久8)12月、大隅(おおすみ)・薩摩(さつま)の守護となり、のち日向(ひゅうが)の守護も兼ねた。1203年(建仁3)9月、比企能員の乱に縁座し、3か国の守護などを罷免されたが、まもなく薩摩の守護にのみ復した。13年(建保1)の和田義盛(よしもり)の乱に戦功をたて、21年(承久3)の承久(じょうきゅう)の乱後には、功により越前(えちぜん)守護となった。官途は、初め左兵衛尉(さひょうえのじょう)、のち左衛門尉(さえもんのじょう)、25年(嘉禄1)大夫尉(たいふのじょう)となり、のち豊後守(ぶんごのかみ)に任ぜられた。嘉禄(かろく)3年6月18日、鎌倉で没す。
[菊池紳一]
鎌倉時代の薩摩・大隅・日向国守護。法名得仏。島津氏初代,惟宗姓。系図は源頼朝庶子。母は比企能員妹丹後局,惟宗広言の養子とするが不詳。幕末に以仁王遺子説が生まれたが誤り。近衛家の家司惟宗氏の出か。生年については1179年(治承3)説があるが疑問。85年(文治1)島津荘下司職,翌年惣地頭職補任。89年には島津荘荘官を率いて奥州征伐に参加。97年(建久8)薩隅両国家人奉行人(守護)となり,ついで日向・越前国守護。1203年(建仁3)比企氏の乱に縁座。三州守護・地頭職没収。その後薩摩国にのみ復職。21年(承久3)の承久の乱に武功をたてた。薩摩下向の時期については1186年ほか諸説あるが不詳。被官酒匂(さかわ)・本田氏らを下向させ,自身は主として京都または鎌倉にとどまったとも考えられる。室は畠山氏。若狭国守護津々見忠季は弟。墓は鎌倉(島津重豪の修営),野田感応寺,鹿児島五道院(本立寺)にある。
執筆者:五味 克夫
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(野口実)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
?~1227.6.18
鎌倉前期の武将。従五位下・豊後守。島津氏の祖。惟宗(これむね)姓。源頼朝の子で惟宗広言の養子とする説もあるが,近衛家の家司(けいし)惟宗氏の出身とする説が有力。頼朝に仕え,1186年(文治2)薩摩国島津荘地頭となる。97年(建久8)薩摩・大隅両国の守護となり,日向国守護も兼ねるが,1203年(建仁3)比企(ひき)氏の乱に連坐し所職を没収される。のち薩摩国については回復し,21年(承久3)には越前国守護に任じられた。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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…旧国名。薩州。鹿児島県西半部。
【古代】
西海道に属する中国(《延喜式》)。大隅国と同じく日向国より分出し,合わせて南九州の三国,奥三州などと呼ばれた。《日本書紀》白雉4年(653)7月条に〈薩麻之曲竹島之間〉とみえ,《続日本紀》大宝2年(702)8月条に薩摩・多褹(たね)を征討し,戸を校(かんが)え吏を置く,10月条に唱更(はやひと)国司の言上で国内の要害に柵を建て兵を置くとあり,その説明に唱更国とは今の薩摩国府なりとあることから,このころ薩摩国は日向国より分出設置されたと思われる。…
※「島津忠久」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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