崇聖寺跡(読み)すうせいじあと

日本歴史地名大系 「崇聖寺跡」の解説

崇聖寺跡
すうせいじあと

呉羽山くれはやま丘陵じよう山の東麓、現在のてら町ないしは金屋かなやにあったとみられる臨済宗寺院。山号は万松山、一に海陽山とも号した。開山聖一派の竺山至源で(扶桑五山記)、鎌倉時代末期の人と推定されている。康安元年(一三六一)一二月一一日以前に竺山の弟子隣岩徳という人物が入院しており、この時諸山に列した(広智国師語録)。京都東福寺七三世となった見剛直宗が一時入院したこともあり(不二和尚遺藁・棘林志)、当寺は東福寺住持へ昇任していくための出世寺であったともいえる。以後応永年間(一三九四―一四二八)に天岩慧(不二和尚遺藁)、宗鎮泰山(東漸和尚法語集)、永享一〇年(一四三八)頃に通延(「蔭涼軒日録」同年四月二〇日条)、文安四年(一四四七)頃に密室至賢(心田播禅師疏)、寛正二年(一四六一)頃に曇(「蔭涼軒日録」同年一一月二一日条)、同五年頃に知見(同書同年一二月二一日条)、延徳三年(一四九一)頃に恵徹(同書同年六月二日条)、大永八年(一五二八)頃に玄儔(鹿苑院公文帖)、天文一八年(一五四九)頃に天庵梁桂(同書)が入院していた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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