和歌山県中北部、有田郡(ありだぐん)にあった旧町名(金屋町(ちょう))。現在は有田川町の中部を占める地域。旧金屋町は、1955年(昭和30)鳥屋城(とやじょう)、生石(おいし)、石垣(いしがき)、五西月(さしき)の4村が合併、町制を施行して成立。2006年(平成18)吉備(きび)、清水(しみず)の2町と合併、有田川町となった。旧町名は旧鳥屋城村の金屋に由来する。鋳物師の村金屋は有田川中流谷口の渡河点で村の中心となった。付近には市場(いちば)という地名もある。国道424号、480号が通じる。生石ヶ峰(おいしがみね)の南麓(なんろく)登山口でもあり、有田鉄道が早く通じた(2002年廃止)。中世山城(やまじろ)の鳥屋城跡(県史跡)、この地に生まれた明恵上人(みょうえしょうにん)ゆかりの歓喜(かんぎ)寺などの遺跡、江戸時代中期の農家鈴木家住宅(国指定重要文化財)などがある。ミカン栽培を主とするが、野菜栽培との複合経営やブドウなどの観光農園も増えている。有田川で行われる鵜飼(うかい)は県の無形民俗文化財となっている。
[小池洋一]
『『金屋町誌』全2巻(1972、1973・金屋町)』
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…鎌倉末期,左方に代わって右方の支配下に入った鎮西鋳物師は,南北朝期には大宰府の補任する宰府惣官に統轄され,室町期にかけて,長門国大工,備後国大工のごとく,守護によって補任された1国ないし数国の大工,惣官も現れる。鎌倉後期には確認される各地の鉄屋=金屋(かなや)は,鋳物師の集住する作業場であり,諸国鋳物師はそこを根拠に,1国ないし数国を商圏とし,守護の保証の下に生産,交易に従事するようになった。1413年(応永20)の越中国鋳物師は棟梁20宇,寄人を合わせて250宇であったが,これはかなり大規模な集団であろう。…
…単に金屋神とも,また金鋳神(かないがみ)ともいう。たたら師,鉄穴師(かんなじ),鍛冶,鋳物師(いもじ)などの間で祭られている火の神・製鉄の神。…
…古くは釜作専業ではなかったが,室町時代以降,茶の湯の流行に伴い,京都三条釜座がおこると,釜作を専業とする鋳物師が輩出し,釜屋と称し,茶人の好みに応じた釜を鋳造するようになった。足利将軍家においては御釜師の名称も用いられたといわれるが,釜の発祥地とされる筑前芦屋や下野(しもつけ)天命では金屋を称しており,いわゆる鍋・釜や梵鐘,釣灯籠なども製作していたが,金屋大工が一般に釜師と称されるようになったのは,京釜が隆盛した安土桃山時代以後のことと考えられる。1700年(元禄13)に西村道冶が著した《釜師之由緒》には〈一,紹鷗時代京都天下一西村道仁,名越善正也。…
…南東前面に周防大島(屋代島)が控え,古くから海上交通の要地であった。中世の楊井津(やないづ)は対明貿易船の基地でもあり,津の中心であった古市,金屋(かなや)には町場があり,鋳物師(いもじ)が集住していた。近世には吉川氏の岩国領で,柳井湾岸の干拓地では製塩が行われ,柳井木綿の産も盛んであった。…
…極印を打ち品位を保証した判金は,すでに15世紀に貿易金として現れ,やがて戦国大名中に鋳造するものもあったが,京都,堺,奈良などに判金,極印銀を鋳造し,両替,秤量,吹替などを営む業者が現れた。16世紀末には地方にも同種の業者が出て,彼らを金屋(かねや),銀屋,天秤屋などと呼び,領主から特権を受けたものが銀座・天秤座である。判金は品位を保証した秤量貨幣で,このほか竿金,延金,玉金など形状によって呼ばれた製錬したままの金も取引された。…
※「金屋」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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