朝日日本歴史人物事典 「巨勢行忠」の解説
巨勢行忠
南北朝期後半から室町初期の巨勢派の絵師。采女正,大蔵少輔,正六位下。巨勢有久の子。巨勢派の系図では9世紀の巨勢金岡以来の正系とするが,確定できない。文和1/正平7(1352)年から康応1/元中6(1389)年までの記録がたどれ,父の跡を継ぎ,貞治2/正平18(1363)年東寺の絵所,応安4/建徳2(1371)年宮廷絵所に在籍した。現存作に岐阜横蔵寺「両界曼荼羅」(1352),京都醍醐寺「普賢延命像」(1382?),代表作の京都東寺「弘法大師絵伝」(1389)がある。ほかに記録では後円融天皇の御世始三壇法の本尊制作(1371)がある。画風は平明,瀟洒だが,画面構成は散漫で,技量は歴代宮廷絵所絵師のなかでも特に優れたものではない。怠慢のため「弘法大師絵伝」の制作を遅延させ,「普賢延命像」の図様を法会の導師にとがめられるも強引に提出するなど,乱世の絵師らしい不敵な態度がみられる。行忠以降,巨勢派は京都画壇から姿を消す。<参考文献>谷信一『室町時代美術史論』,宮島新一「巨勢派論」(『仏教芸術』167・169号)
(相澤正彦)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報