南北朝時代(読み)なんぼくちょうじだい

精選版 日本国語大辞典 「南北朝時代」の意味・読み・例文・類語

なんぼくちょう‐じだい ナンボクテウ‥【南北朝時代】

[一] 中国が江南の南朝と華北の北朝とに分裂対立した時代。五胡十六国の紛乱や東晉の滅亡から隋の再統一までの約一七〇年間をいう。北方民族の進出や江南の開発により、貴族政治が発達、九品官人法・均田制・三長制などの制度が実施され、文芸の開花とともに、仏教や道教が流布し、後の大唐世界帝国の基礎を作った。後漢の滅亡からかぞえて魏晉南北朝時代ともいう。
[二] 日本で、中世、朝廷皇統が南朝(大覚寺統)と北朝(持明院統)とに分裂し対立した時代。両朝の対立は足利尊氏京都持明院統の光明天皇擁立し、大覚寺統の後醍醐天皇吉野に移った建武三=延元元年(一三三六)から、南朝の後亀山天皇が帰京して、室町幕府による全国統一の完成した明徳三=元中九年(一三九二)までであるが、一般には分裂直前の建武の中興一三三三‐三六)を含めて、鎌倉時代室町時代の中間の時代をさしてよぶ場合が多い。両朝はそれぞれ別の年号を用いた。全国的な規模で展開した社会的動乱は、荘園制とそれを基盤とする公家社寺の没落をもたらし、守護の領国支配が進んで室町幕府の支配体制が確立し、一方、村落内部で農民の自治組織が生まれた。また、それまで公家中心の閉鎖的な社会で通行した教養娯楽の一部が広く庶民の間にも行なわれるようになり、連歌・能楽・茶の湯など文化史上の新しい分野が開拓された。

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デジタル大辞泉 「南北朝時代」の意味・読み・例文・類語

なんぼくちょう‐じだい〔ナンボクテウ‐〕【南北朝時代】

南朝北朝の対立した時代。
日本で、延元元=建武3年(1336)に後醍醐天皇吉野に移ってから、後亀山天皇が京都にもどり南北朝が合体した元中9=明徳3年(1392)までの57年間、吉野の南朝(大覚寺統)と、足利氏の擁立する京都の北朝(持明院統)とが対立して争った時代。吉野朝時代。
中国で、漢人の南朝と鮮卑族の北朝が対立した時代。北魏ほくぎが、439年華北を統一して江南と対してから、589年、ずいを滅ぼすまでの約150年間。北朝は5王朝、南朝は4王朝が興亡した。

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百科事典マイペディア 「南北朝時代」の意味・わかりやすい解説

南北朝時代【なんぼくちょうじだい】

1333年鎌倉幕府の滅亡から室町幕府の全国統一まで約60年間の時代。以前は政治史的時代区分として南朝北朝とに分裂した1336年から1392年の両朝合一までをいった。建武新政は武士階級を失望させ,1335年足利尊氏は京都を占拠,持明院統の豊仁(ゆたひと)親王(光明(こうみょう)天皇)を擁立。後醍醐天皇は吉野に移った。1336年から京都の北朝は建武の年号を襲用,吉野の南朝は延元と改元,以後両朝は別々の年号を設けた。現実には南朝と足利政権との対立であった。1337年新田義貞ら北陸勢力の壊滅,1343年北畠親房指揮下の常陸(ひたち)関・大宝(だいほう)両城の陥落で南朝は決定的に敗北。その後は幕府内の足利直義と高師直(こうのもろなお)との勢力争いを発端として,20年間にわたり足利一族諸将が内争を続けた。足利義満が将軍となったのち政権が強化。1392年南朝の後亀山天皇が京都に帰還して足利政権は全国統一。この間の内乱を南北朝内乱といい,内乱のなかで山陽・山陰・北陸・畿内の伝統的豪族層が没落し,荘園制を基盤とする貴族・社寺が衰退。守護は任国を領国化して守護大名となった。→室町時代
→関連項目青方氏足利直冬阿蘇氏賀名生忽那氏光明天皇持明院統春屋妙葩大覚寺統竹むきが記日本ばさら松浦氏両統迭立

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「南北朝時代」の意味・わかりやすい解説

南北朝時代
なんぼくちょうじだい

時代区分の一つ。皇統が南朝と北朝に分裂抗争した延元1=建武3 (1336) 年から両朝が合一した元中9=明徳3 (92) 年までの 57年間をいう。これに先行する建武中興の3年間を含める場合もある。元弘3=正慶2 (33) 年鎌倉幕府滅亡後,後醍醐天皇の親政による復古的政策は武士階級の反感を買い,衆望を集めた足利尊氏は武家政府 (室町幕府) を再開した。尊氏は朝敵の汚名を避けるため,鎌倉時代以来の皇統の対立を利用して,持明院統の光明天皇を立てて大覚寺統の後醍醐天皇に対抗した。後醍醐天皇は吉野に遷幸して皇統の正統性を主張したため,吉野 (→南朝 ) と京都 (→北朝 ) の両王朝が対立し,この時代の名称となった。この時代はだいたい次の3期に分けて考えられる。 (1) 後醍醐天皇吉野遷幸の延元1=建武3年 12月から正平3=貞和4 (48) 年まで。この時期は南朝側も各地で組織的活動をしており,両派の抗争が最も激しかった。 (2) 正平4=貞和5年尊氏の弟直義と執事高師直 (こうのもろなお) の権力争い (→観応の擾乱 ) に始る約 20年間の室町幕府内部の紛争期。最も錯雑した時期で,南朝もこの間隙に小規模な活動をした。 (3) 正平 23=応安1 (68) 年直冬方の中心山名時氏の帰順で,幕府内が整い,南朝側は吉野山や九州肥後山中に封じ込められ,幕府による中央集権体制が確立した時期。両朝の合一はしばしば試みられたが,元中9=明徳3年ようやく実現し,室町幕府は将軍義満のもとで名実ともに全国統一をなしとげた。南北朝時代には,豪族,領主層の惣領制的支配組織が解体し,これに代る地縁的結合の発展と,中小名主層,農民の成長が活発で,これを基盤に荘園制的支配を脱しようとする武士階層が各地で封建的支配を打立てようとした。諸国の守護は,荘園領主権力に打撃を与えた半済 (はんぜい) などにより,これら武士層を一国的に組織支配し,守護大名へと発展した。この時代は,下剋上 (げこくじょう) の言葉どおり古代的諸権力を根底からくつがえし,封建的支配を貫徹するという社会変革の激しい動乱の時代であった。

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旺文社日本史事典 三訂版 「南北朝時代」の解説

南北朝時代
なんぼくちょうじだい

1336年足利尊氏が建武政権に反し,持明院統の光明天皇を擁立してから'92年足利義満のときの南北朝合体までの時代
後醍醐 (ごだいご) 天皇が吉野に移って開いた南朝(後醍醐・後村上・長慶・後亀山の4代)と,尊氏が擁立した北朝(光明・崇光・後光厳・後円融・後小松の5代)の両統が57年間対立した。前期の10余年は北朝方がもっぱら南朝を攻撃し,中期の10余年は幕府の内紛(観応の擾乱)を利用して南朝が活躍,後期30年間は3代将軍義満による幕府権力の確立した時期。この間荘園制の崩壊による貴族・寺社の没落,郷村制の発達,守護領国制の形成などがあり,社会経済史上注目すべき時代であった。

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世界大百科事典 第2版 「南北朝時代」の意味・わかりやすい解説

なんぼくちょうじだい【南北朝時代】


[時代区分]
 14世紀の半ばから末まで50余年間の南北朝内乱の時代をいう。鎌倉時代と室町時代の中間にあたるが,広義の室町時代に含まれる。通常,1336年(延元1∥建武3)足利尊氏が北朝の光明天皇を擁立し,それについで後醍醐天皇が吉野に移り南朝を開いた時期をその始期とする。また政治体制だけでなく,社会構成の変化を目安とすれば,14世紀初頭ころから徐々に南北朝時代的な状況に入っている。一方,終期は一般に,南北朝合一によって事実上南朝が北朝に吸収され,室町将軍家による全国統一が名目上完成した1392年(元中9∥明徳3)とする。

なんぼくちょうじだい【南北朝時代 Nán Běi cháo shí dài】

中国,江南の南朝諸王朝と華北の北朝諸王朝が対立しあった5,6世紀の時代。江南では420年に宋が成立し,華北では439年に北魏が北涼を滅して華北統一をなしとげ,南北朝時代が現出。この南北対立時代に終止符が打たれたのは589年,北朝の系譜をひく隋が南朝の陳を滅ぼしたことによる。今日では隋は北朝に含めないことが多いが,唐の李延寿は《南史》に宋,斉,梁,陳の歴史を,《北史》に北魏,北斉,北周,隋の歴史をあつかっている。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「南北朝時代」の解説

南北朝時代
なんぼくちょうじだい

1日本史の時期区分。1336(建武3・延元元)~92年(明徳3・元中9)。京都の持明院統の朝廷(北朝)に対して,吉野(のち賀名生(あのう)・金剛寺など)に大覚寺統の朝廷(南朝)があった時代。両朝の争いは貴族や武士だけでなく広範な民衆をまきこみ,この時代に社会は大きく変動した。

2中国史の時期区分。晋(西晋)滅亡後に混乱していた華北の北魏(ほくぎ)による統一(439)から,隋による全国再統一(589)までをさす。

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防府市歴史用語集 「南北朝時代」の解説

南北朝時代

 1336年から約60年間続いた、朝廷が2つ存在していた時代です。建武の新政がくずれ、足利尊氏[あしかがたかうじ]が京都で新しく天皇をたてたのに対し、後醍醐[ごだいご]天皇が吉野(奈良県)で朝廷をつくりました。1392年の足利義満[あしかがよしみつ]の時代まで続きました。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「南北朝時代」の解説

南北朝時代(なんぼくちょうじだい)

魏晋南北朝(ぎしんなんぼくちょう)

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世界大百科事典内の南北朝時代の言及

【魏晋南北朝時代】より

…その将校であった劉裕は孫恩の反乱を破り,桓玄の革命を挫折させ,一時北伐にも成功して,420年東晋を奪い朝を建てた。華北では439年に北が華北を平定したので,中国は胡・漢が南北に対立する形勢となり,以後を南北朝時代という。 南北朝時代には魏・晋期の流動性がいくらか減って社会の固定化がみられると同時に,中国再統一への新たな要因が顕在化した。…

※「南北朝時代」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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