日本歴史上、1336年から1392年まで半世紀余りをさす時代概念。ときとしては1333年から1335年の建武(けんむ)政権期をこれに含ませる。
1335年(建武2)、北条高時(ほうじょうたかとき)の子時行(ときゆき)が挙兵して鎌倉を奪うと、足利尊氏(あしかがたかうじ)はその討伐のため東下し、鎌倉を奪還後、建武政権に反旗を翻し、新田義貞(にったよしさだ)の軍を破って入京。いったん敗れて西走したが、翌年再度入京、持明院統(じみょういんとう)の光明天皇(こうみょうてんのう)を擁立した。後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は吉野に逃れ、そこに一部の公家(くげ)を集めて朝廷開設の姿勢を示したため、世に光明天皇の京都の朝廷を北朝、後醍醐天皇の吉野の朝廷を南朝とよび、このときから両朝併立の南北朝時代が始まった。これ以後、公家・武家(ぶけ)さらには寺社に至るまで、しばしば分裂して両朝いずれかの側につく形をとって抗争、日本歴史上でも前例のない動乱の半世紀余りが続いたが、1392年(元中9・明徳3)、足利義満(よしみつ)が、武家勢力の統合を背景として、両朝合体という名の、事実上の南朝解消に成功し、南北朝時代は終わった。
この間、足利尊氏は、1336年(延元1・建武3)光明天皇を擁立するとすぐ、「建武式目」を定めて武家政権を京都に開設し、1338年(延元3・暦応1)征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)となった。そのため南北朝時代は、別には足利時代あるいは後の幕府所在地の名をとっていう室町時代とも重なるが、広義における室町時代のうち、1392年までは南北朝時代とよぶことが広く行われている。それは、室町時代でも、応仁(おうにん)の乱(1467~1477)以降をしばしばとくに戦国時代とよんで、その時期の特徴を表すのと共通の方式である。
[永原慶二]
半世紀余りにわたる南北朝時代の政治的および軍事的過程は、やや立ち入ってみると、ほぼ三つの段階に区分することができる。第一段階は両朝分裂から1348年(正平3・貞和4)までである。これは、南朝方の軍事的抵抗が続けられた時期であるが、1343年(興国4・康永2)北畠親房(きたばたけちかふさ)が東国経営の拠点とした常陸(ひたち)の関城(せきじょう)・大宝城(たいほうじょう)が落ち、ついで1348年、南朝方の軍事力の中心であった楠木正行(くすのきまさつら)が戦死し、後村上天皇(ごむらかみてんのう)が吉野から賀名生(あのう)に移り、南朝はまったく無力化した。
第二段階は1349年(正平4・貞和5)から1367年(正平22・貞治6)までである。この時期は足利尊氏・直義(ただよし)兄弟の争いから観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)とよばれる武家勢力の分裂が動乱の主要局面となったときから始まり、尊氏の直義打倒、尊氏の死に続く子義詮(よしあきら)の時代である。南朝方はこの間、争い合う尊氏と直義にこもごも支持されたこともあって、一時はその兵を京都にまで進出させることもあったが、大勢はもはや挽回(ばんかい)できなかった。
第三段階は1368年(正平23・応安1)の足利義満(よしみつ)の将軍就職から1392年の両朝合一までである。初め義満は幼少で、重臣細川頼之(ほそかわよりゆき)の支持を頼ったが、頼之は足利一門の斯波義将(しばよしまさ)らと争い、1379年(天授5・康暦1)失脚、幕府内部の分裂がふたたび深刻となった。これを切り抜けた義満は、外様(とざま)の有力守護土岐(とき)・山名(やまな)などを討つことによって武家の統合に成功、これを踏まえて両朝統一を実現した。
[永原慶二]
このような政治・軍事的推移に伴って、政治権力と支配体制も大きく変化した。鎌倉時代にはなお相当の政治的実力を保持していた公家政権は、この時代を通じて急速に無力化した。北朝は一見すると足利将軍の傀儡(かいらい)のようにも思われるが、なお一定の独自性を主張し、かつその権力基盤たる荘園(しょうえん)・公領の確保に努力したが、京都を幕府に制圧されるとともに、諸国の支配拠点であった国衙(こくが)の権能・機構も守護に吸収されたため、もはや独自に国家支配の体制を保つことはできなくなった。
これにかわって地方では、守護が職権を拡大して、従来の重罪人の検断や軍事指揮権のみならず、民事的な諸紛争に対する裁判権や半済(はんぜい)実施権などをもち、国人(こくじん)とよばれる在地領主層を被官化して守護大名としての性質を強めていった。また幕府はそれらの守護を介して全国の武士の統合を進めるとともに、従来朝廷の保持していた公家・寺社などの間での紛争に対する裁判権や検非違使庁(けびいしちょう)が保持していた京都市中の警察権、さらには伊勢(いせ)神宮造替経費、即位譲位のときの臨時段銭(たんせん)など、租税的性質の強い全国賦課権を掌握した。その結果、鎌倉時代にみられた公武二重権力状態は一変し、封建的主従制の拡大深化を踏まえた武家単独政権が成立していった。なお、この時代に、支配権力の分裂が深刻になると、各地の国人とよばれた地方領主層は、相互に対立する反面、国人一揆(こくじんいっき)とよぶ同族的ないしは地域的な連合を形成し、荘園領主や室町幕府・守護権力に対して自立する動きを強めた。また農村でも農民たちが惣村(そうそん)結合を形成し、上部権力を排除する傾向が強まった。これら群小領主層と農民はときとしては互いに結び合い、反権力の行動をとったため、上級領主側からはそれを「悪党」とよぶことも少なくなかった。
[永原慶二]
社会経済の面では、公家・寺社など旧勢力の権力基盤であった荘園公領制の解体が進行し始めた。公家政権の実力と権威が厳存していた時代では、公家・寺社は全国に分散する多数の所領から、いながらにして年貢雑公事(ぞうくじ)を手にすることができた。とくに皇室や摂関家は、一般の公家・寺社からの二重寄進で荘務権を伴わない本家職(ほんけしき)を多数保持していたが、天皇・摂関の権威の失墜とともに、本家職年貢の収取は急減した。また荘務権をもつ本所(ほんじょ)でも、現地で国人領主の領主的成長が進み、それと絡みつつ農民の年貢雑公事減免運動が強められたため、直接的な形での支配の維持は困難となり、守護や国人の請負ということで無力化する方向が進んだ。とくに観応の擾乱をきっかけに始められた半済はしだいに地域的に拡大されるとともに、長期化し、事実上、所領半分が武家領に転化された。また国々の公領は、守護が国衙の権能・機構を接収することにもなって、ほとんど守護領に転化された。幕府は荘園・公領を単位とする支配の体制を原理的に否定しようとしたわけではなく、守護もまた荘園・公領を前提とし、そこにおける現地支配権を掌握するにとどまっていたが、本所側は京都で一定の年貢を受け取るだけの存在に追い込められていった。
この時代の社会経済面における変化としてもう一つ見逃せないのは、農業生産力の発展を背景とした村落構造の変化である。この時代、とくに畿内(きない)を中心とした先進地域では、施肥量の増加、品種の多様化、灌漑(かんがい)・排水条件の改善などによって水稲の収量が高まり、同時に水田の裏作麦の栽培も拡大した。そうしたことを条件に小規模農民経営の安定度が高まり、有力農民は加地子(かじし)の収取関係を拡大して地主的性質を強め、農村は「小百姓」身分の小規模農民をも含む惣(そう)型の村落共同体結合を発達させた。惣型村落共同体は動乱の波及に対して自衛するため、武装したばかりでなく、ときとしては村の周囲に濠(ほり)を巡らす環濠集落(かんごうしゅうらく)を形成した。さらにこのような農業生産力の発展を基礎として、苧麻(ちょま)・綿(絹綿)・荏胡麻(えごま)などの原料作物や、簾(すだれ)・蓆(むしろ)・油(あぶら)・索麺(そうめん)などの農産加工品の生産・流通も拡大し、この時代は社会分業と貨幣流通が前代に比べ顕著に発展した。大観すれば、日本経済史上、交換手段として貨幣が一般化しだしたのはこの時代からといって差し支えない。
[永原慶二]
公武交替、武家単独政権の形成を指向していた室町幕府は、朝廷・公家勢力が南都北嶺(なんとほくれい)の旧寺院と結んでいたことに対抗して、禅宗寺院の育成を図った。鎌倉時代に成立した鎌倉五山の制を京都中心に改めたのは建武政権であったが、室町幕府は鎌倉・京都の十寺五山の制を整えるとともに相国寺(しょうこくじ)を創建し、夢窓疎石(むそうそせき)・春屋妙葩(しゅんおくみょうは)・絶海中津(ぜっかいちゅうしん)らの禅僧を重用した。その結果、禅林は当時における学問・文化の中心となり五山の詩文学が栄え、さらに中国事情に詳しかったことから、幕府の政治・外交顧問の役割を演ずるようにもなった。
一方、この時代の世相や人々のものの考え方などに現れた特徴という点では、反権威的、現実主義的な傾向が目だっている。足利尊氏の執事高師直(こうのもろなお)は、皇室・公家・寺社などの所領を部下たちに思いのまま侵奪させて平然としていたし、近江(おうみ)の守護佐々木導誉(ささきどうよ)はちょっとした争いから皇族の屋敷を焼き払い、美濃(みの)の守護土岐頼遠(ときよりとお)は院の行列に行き会っても下馬の礼をとらず、とがめられると逆に暴言を吐くありさまであったという。そのような反権威・下剋上(げこくじょう)の気風は一部の守護大名たちのなかだけのことでなく、社会の諸階層に浸透し、農民もしばしば武器をとり、戦乱に加わり、あるいは年貢・夫役の納入を拒否するなど、さまざまの実力行動をとった。
さらに、反権威の気風は人々の寄合(よりあい)という形での団結の場を至るところで生み出した。惣村は自治的な形での村共同体の運営に寄合を不可欠とし、その団結は一揆(いっき)・一味神水(いちみしんすい)という形で誓約された。そればかりでなく、連歌(れんが)や闘茶などの集団娯楽の場も一種の寄合として、解放と協同の気風を高めた点でこの時代の世相をよく表しており、そのような社会的解放感は、風俗の面では婆娑羅(ばさら)とよばれる自由大胆な服装、髪型、ふるまいなどを流行させた。
この時代の文学作品としては吉田兼好(よしだけんこう)の『徒然草(つれづれぐさ)』と『太平記』があげられるが、世俗を逃れた遁世者(とんせいしゃ)兼好の文には、意外なほど金(かね)の世の中への執着、拝金思想ともいうべき思いが示されている。また『太平記』の筆者は「宮方深重(みやがたしんちょう)の者」といわれ、南朝方に近い立場から筆を進めながら、しだいに各地で進む反権威的な武士の行動や勢力交替に関心を強めていっており、そうしたところにも時代相がよく現れている。
[永原慶二]
日本歴史上、2人の天皇、二つの朝廷という他に例のない特異な時代の意味・評価については、古来多くの論議があった。しかし近代になると「両朝併記説」がとられ、国定教科書『小学日本史』も、併立説で書かれていた。ところが1911年(明治44)衆議院議員藤沢元造が、大逆事件と関連させて、これを論難、そのため教科書執筆者の喜田貞吉(きたさだきち)は文部省編纂官(へんさんかん)を休職とされ、以後、教科書は「南北朝時代」にかえて「吉野朝時代」の語を用いることとなった。また桂太郎(かつらたろう)内閣は天皇に奏上して、従来宮内省のとっていた北朝正統を改め、南朝正統とし、同時に北朝歴代の祭祀(さいし)は従来どおりと改定した。この事件は、南北朝時代の客観的事実が名分論の立場から政治的に歪曲(わいきょく)されたこと、また教科書記述が政治によって支配されたことを意味し、学問・教育の受難史として忘れがたい事件であった。
こうして第二次大戦前には南北朝時代史の客観的認識が著しく脅かされたため、戦後は、そのような歪曲を徹底的に排除し、この時代を政治・社会・経済・文化などの諸側面にわたる広範な歴史的変動の画期として、その変化の内容を追究する視点が重視されるようになった。
[永原慶二]
『田中義成著『南北朝時代史』(1922・明治書院)』▽『佐藤進一著『日本の歴史9 南北朝の動乱』(1965・中央公論社)』▽『松本新八郎著『中世社会の研究』(1956・東京大学出版会)』▽『佐藤和彦著『南北朝内乱史論』(1979・東京大学出版会)』
5、6世紀の中国の政治的分裂の時代をさすが、3世紀初め以降とあわせて魏晋(ぎしん)南北朝時代としてとらえることが多い。420年、宋(そう)が東晋(とうしん)にかわって興り、439年には北魏(ほくぎ)が華北を統一して南北対立の様相が確定する。江南には宋ののち南斉(なんせい)、梁(りょう)、陳(ちん)が続き、北方では北魏が東魏、西魏に分裂、それぞれが北斉(ほくせい)、北周に国を奪われるというめまぐるしい興亡のあと、北周にかわった隋(ずい)が589年陳を滅ぼして南北対立は終結する。
[窪添慶文]
14世紀の半ばから末まで50余年間の南北朝内乱の時代をいう。鎌倉時代と室町時代の中間にあたるが,広義の室町時代に含まれる。通常,1336年(延元1・建武3)足利尊氏が北朝の光明天皇を擁立し,それについで後醍醐天皇が吉野に移り南朝を開いた時期をその始期とする。また政治体制だけでなく,社会構成の変化を目安とすれば,14世紀初頭ころから徐々に南北朝時代的な状況に入っている。一方,終期は一般に,南北朝合一によって事実上南朝が北朝に吸収され,室町将軍家による全国統一が名目上完成した1392年(元中9・明徳3)とする。ただし室町将軍家の権力確立にとっては,前年の明徳の乱などによる有力守護圧服,94年(応永1)の足利義満の太政大臣就任などにみられる公武権力掌握の意義は,南北朝合一に劣らず大きい。
1335年(建武2)中先代の乱を鎮定して鎌倉に入った足利尊氏・直義兄弟が,同年11月後醍醐天皇にそむいたことにより,建武政権の破局は決定的になった。尊氏・直義兄弟は翌36年再度にわたり入京し,光明天皇擁立と前後して幕府の諸機関を設け,諸国に守護を派して勢力拡張を図った。後醍醐天皇を支持する諸国の南朝方は各地で足利方に抗戦したが,足利方は積極的な所領政策などにより多数の国人に支持され,南朝方はしだいに諸国の拠点を失った。しかし49年(正平4・貞和5)以来幕府諸将間の対立が露呈し,翌50年(正平5・観応1)尊氏党と直義党に分かれてはげしい内戦(観応の擾乱(じようらん))を展開するにおよび,漁夫の利を得た南朝方は延命のいとぐちをつかみ,直義の敗死後は南軍に下った旧直義党武将とともに再三京都に突入した。とくに鎌倉後期以来諸豪族の利害対立が深刻で,反幕府的風潮の強かった九州は,ほとんど南朝方の制圧下に入った。しかし幕府が守護の権限を強化し,守護勢力による国人層掌握が進展するにつれて,南朝方は再び衰退に向かった。わけても68年(正平23・応安1)将軍となった足利義満のもとで幕府機構が整備され,北朝の諸権限が幕府に漸次吸収されると,南朝存立の意義も薄れた。
そもそもこの南北朝時代は,二毛作の普及等々にみられる生産力の発展を基礎とした根深い社会的・経済的変動の時代であり,族縁的原理による惣領制の解体期であって,内乱の長期化した基本的な要因もここに求められる。しかし,この時代は同時に惣荘・惣村(惣)の成立や国人一揆の結成にみられるような新たな地縁的結合の成長した時代でもあった。その結果,国人層の地域的支配をめざす守護級豪族や荘園支配の再建を求める権門寺社は,いずれも将軍権力への依存性を強め,結局室町幕府の主導下に,1392年南北朝合一が実現したのである。
南北朝時代の政治情勢を通観すると,室町幕府が,多少の伸縮はあったといえ,漸次全国の支配権を掌握する過程であったといっても過言でない。まず尊氏は,建武政権への離反からわずか1年ほどで,東国から九州にいたる主要地域を制圧した。このような足利方の成功は,次のような周到かつ巧妙な戦略による点が大きい。(1)源氏の名門である足利氏の地位を利用して将軍と称し,かつ建武式目を制定し政所・侍所以下の幕府諸機関を復活させて,建武政権の公家優先の方針に失望した諸国武士に,幕府再興路線を強く印象づけた。(2)足利一門と有力被官の諸氏を守護・大将などに起用し,全国に分布する足利氏の所領などを拠点として,国人層統率の効果をあげた。(3)前代以来の有力豪族の多くをいちはやく味方とし,その国の守護などに任用して支配をゆだねた。(4)国人層のはげしい所領獲得要求にこたえて,積極的な恩賞政策を採用した。(5)大覚寺統の後醍醐天皇に対抗するため,持明院統の光厳上皇の院宣を受け,さらに光明天皇を擁立し,両皇統の分立を利用して朝敵の汚名を避け,足利方の正統性を印象づけるように努めた(両統迭立)。(6)大犯三箇条に苅田狼藉の禁圧と使節遵行権を付加して,守護の検断権を強化した。
一方,南朝方も,足利氏に反発する新田氏以下の豪族,公家領・寺社領などの荘官の一部,山野河海や水陸交易路を活動舞台とする供御人(くごにん)・神人(じにん)集団などの根強い支持勢力を有していたが,上記のような足利方の戦略の前にしだいに劣勢に追い込まれた。しかし,南朝方の凋落傾向に一応の歯止めをかけることができたのは,足利方の内部における尊氏党と直義党の対立であった。尊氏は幕府開設当初から弟直義に評定,引付方,安堵方,禅律方および軍勢催促状,感状発給など多くの政務を委任し,主として守護以下の人事権や恩賞授与権のみを親裁した。しかし尊氏を補佐する幕府執事高師直は国人の所領要求を積極的に支持する一種の革新路線を代表し,権門寺社の荘園維持要求を支持する直義の保守路線と対立した。その結果1350年観応の擾乱がおこり,師直も直義も結局横死したが,敗北した旧直義党武将の多くは南朝方の戦列に加わり,内乱は一時激化の様相を呈した。国人層掌握の必要性をいっそう感じ取った幕府方は,国人対策に大きな変更を加えた。その一つは国人一揆の容認による地縁的結合への対応,いま一つは半済法の制定による所領要求への積極的対応である。とくに半済法は,寺社本所領の管理を守護配下の武士に分与し,年貢の半分をその武士の収益とするものであるが,配下武士の配置は守護に一任されたので,守護は国人統率権を強化して大名化の傾向を強めた。南朝方も権門寺社領の一部を朝用分と称して国人層に割譲して,幕府方の国人層対策に対抗したが,守護の権限を強めつつ実施した幕府方の国人掌握策のほうがより効果的であった。さらに,守護は在庁官人を被官として国衙領の守護領化を推進し,かつ種々の名目で公家領・寺社領の荘園にも支配の手をのばした。
こうして幕府の主導下に観応の擾乱の余波も鎮静に向かったので,1358年(正平13・延文3)の尊氏の病没とその嫡子義詮の将軍就任も幕府に大きな動揺を及ぼさなかった。ただし守護級有力武将間の抗争は,なおときおり再燃した。義詮の任命した幕府執事細川清氏は性急な勢力拡大,職権強化をもくろんで佐々木高氏(道誉)らの武将と対立し,61年(正平16・康安1)義詮から追放され,南朝に投降した末,翌年敗死した。その後任の幕府執事斯波義将も,その父高経ほか一族とともに66年(正平21・貞治5)やはり高氏らとの対立の結果追放されたが,翌67年高経の病没とともに一族は帰参を許された。
同年,義詮は多年対立した弟の鎌倉御所基氏とも和解した。しかし義詮は幼少の嫡子義満に家督を譲って病没し,遺命を受けた細川頼之が将軍義満を後見して政務を代行した。これを機会として,それまで将軍-執事-守護あるいは将軍-侍所-守護,将軍-引付頭人-守護などと多岐に分かれていた幕命の伝達系統が,ほぼ将軍-管領-守護に統一され,管領制が成立したと判断される。かつ頼之は半済法を整備し,全国の公家領・寺社領の大部分を本所と給人との間で折半させてそれぞれを一円所領とし,国人層と権門寺社との利害を調停しうる最高の国家権力としての機能を幕府が発揮する基礎をととのえた。あたかもこのころ,公家の相続の安堵,有力寺社の訴訟裁決,洛中住民の検断,公田段銭の催徴,酒屋・土倉への課税などの権限が北朝の朝廷から幕府に移行し,幕府による朝廷の権限の吸収がいちじるしく進んだ。
幕府権力の強化・充実を機として,頼之は河内,伊勢,越中などの南軍を攻撃するとともに,今川貞世を鎮西管領(のち九州探題)として発遣し,九州における幕府方の勢力を挽回させた。しかし管領頼之の幕府権力強化策は細川一族の重用,守護家の内紛への介入,五山統制の強化,南都北嶺の抑圧などを伴ったため,頼之の専権に対する主要守護大名諸氏の反感が強まり,ついに1379年(天授5・康暦1)斯波義将,土岐頼康,京極高秀らの諸大名は頼之罷免を要求して挙兵し,鎌倉御所氏満もはるかに呼応して西上を図ったので,将軍義満は頼之を罷免し,義将を管領とした。
この康暦の政変は,幕府の政治体制がいっそう充実する契機となった。政所執事が二階堂氏から伊勢氏に代わるとともに,従来支配系統の分かれていた幕府直轄領(公方御料所)は政所の一括管理下に入り,かつ朝廷・山門などが分掌していた洛中の雑務沙汰(動産の売買・貸借等に関する訴訟)の裁判権も1386年(元中3・至徳3)までに幕府政所の一括審理下に入った。また朝廷の記録所または院の文殿(ふどの)で行われていた2本所間の公家裁判も1381-83年(弘和1・永徳1-弘和3・永徳3)に停止し,幕府の裁判権に移行した。このような幕府の政治権力の拡充とともに義満の官位もめざましく昇進し,83年までに従一位,左大臣,准三后,蔵人所別当,院別当,源氏長者,淳和奨学両院別当を一身に兼ね,将軍家は公武両域にわたる専制君主としての威容をととのえるようになった。
ただし将軍の専制権力確立にとって障害となりかねないのは,国人層の組織化に成功して数ヵ国にわたる分国支配を築いた強大な守護大名の出現であった。そこで義満は89年(元中6・康応1)の美濃・尾張・伊勢守護土岐氏の内紛,90年(元中7・明徳1)の山陰・山陽等11ヵ国の守護山名氏の内紛に,それぞれ介入して,いずれも翌年鎮定した。この美濃の乱と明徳の乱の軍事的勝利を背景として,義満は南朝との講和交渉を行い,92年南北朝合一を実現して,事実上南朝を解消させることに成功したのである。
→建武新政 →南北朝内乱
執筆者:小川 信
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1日本史の時期区分。1336(建武3・延元元)~92年(明徳3・元中9)。京都の持明院統の朝廷(北朝)に対して,吉野(のち賀名生(あのう)・金剛寺など)に大覚寺統の朝廷(南朝)があった時代。両朝の争いは貴族や武士だけでなく広範な民衆をまきこみ,この時代に社会は大きく変動した。
2中国史の時期区分。晋(西晋)滅亡後に混乱していた華北の北魏(ほくぎ)による統一(439)から,隋による全国再統一(589)までをさす。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…その将校であった劉裕は孫恩の反乱を破り,桓玄の革命を挫折させ,一時北伐にも成功して,420年東晋を奪い宋朝を建てた。華北では439年に北魏が華北を平定したので,中国は胡・漢が南北に対立する形勢となり,以後を南北朝時代という。 南北朝時代には魏・晋期の流動性がいくらか減って社会の固定化がみられると同時に,中国再統一への新たな要因が顕在化した。…
※「南北朝時代」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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