正平(読み)ショウヘイ

大辞林 第三版の解説

しょうへい【正平】

南朝の年号(1346.12.8~1370.7.24)。興国の後、建徳の前。後村上・長慶天皇の代。

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日本の元号がわかる事典の解説

しょうへい【正平】

日本の元号(年号)。室町時代(南北朝時代)の1346年から1370年まで、後村上(ごむらかみ)天皇、長慶(ちょうけい)天皇の代の南朝で使用した元号。前元号は興国(こうこく)。次元号は建徳(けんとく)。1346年(興国7)12月8日改元。正平年間の北朝の天皇は光明(こうみょう)天皇、崇光(すこう)天皇、後光厳(ごこうごん)天皇。北朝では、貞和(じょうわ)(1345~1350年)、観応(かんのう)(1350~1352年)、文和(ぶんな)(1352~1356年)、延文(えんぶん)(1356~1361年)、康安(こうあん)(1361~1362年)、貞治(じょうじ)(1362~1368年)、応安(おうあん)(1368~1375年)の元号を使用した。室町幕府の将軍は足利尊氏(たかうじ)(初代)、足利義詮(よしあきら)(2代)、足利義満(よしみつ)(3代)。1350年(正平5/観応1)から1352年(正平7/文和1)にかけて、室町幕府は足利直義(ただよし)(尊氏実弟)派と、尊氏側近の重臣高師直(こうのもろなお)派に分裂して、「観応の擾乱(じょうらん)」と呼ばれる内訌(ないこう)が起こった。直義派が関東・北陸・山陰を押さえ、足利直冬(ただふゆ)(直義の養子)が九州で勢力を伸ばしていたことから、尊氏は1351年(正平6/観応2)に南朝に和議を提案、南朝方も尊氏の帰順を受諾して直義追討の綸旨を発した。これにより、北朝の崇光天皇と皇太子は廃位となり、北朝が使用していた「観応」の元号も廃されて、南朝の「正平」に統一された(「正平一統」)。翌年、南朝方は京と鎌倉を同時に急襲、鎌倉にあった尊氏は武蔵国に、京の義詮は近江国に逃れて「正平一統」を破棄し、元号を「観応」に戻した。その後間もなく、北朝方は京と鎌倉を奪還するが、南朝方は光厳・光明・崇光の三上皇を連れ去った。そのため、北朝方は光厳上皇の第二皇子である後光厳天皇を擁立し、直後に「文和」と改元した。

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精選版 日本国語大辞典の解説

しょうへい シャウヘイ【正平】

浮世草子・好色二代男(1684)五「地は薄玉子に、承平(シャウヘイ)の染紋」
[2] 南朝の後村上・長慶天皇の代の年号。(北朝では、光明・崇光・後光厳天皇)興国七年(一三四六=北朝貞和二年)一二月八日に改元、正平二五年七月二四日に建徳元年(一三七〇=北朝応安三年)となる。その間の北朝年号は観応、文和、延文、康安、貞治、応安。将軍足利尊氏・義詮(よしあきら)

せい‐へい【正平】

〘名〙 (形動) 心が正しく公平であること。また、そのさま。〔新唐書‐孔戣伝〕

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